東京主僕教会の最近一か月の説教など

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2017年12月24日キャンドル・サービスのメッセージ

<キャンドル・サービスのメッセージ>                  
                                   
 クリスマスは光の祝祭と言われます。今上野で『葛飾北斎ジャポニスム HOKUSAIが西洋に与えた衝撃』という展覧会が行われています。江戸時代後期を代表する浮世絵師の葛飾北斎の作品と、19世紀後半にフランスを中心に起こった「ジャポニスム」の影響を受けた作家の作品があわせて展示されています。葛飾北斎をはじめ、モネ、ドガセザンヌゴッホゴーギャンなど有名な画家の絵が展示されています。

  その中で、特にゴッホがどのような影響を受けたのかということを調べていくと、興味深いことがありました。当時、西洋画には、「滅びの美」を描くことが良いという風潮があり、「メメント・モリ(死を思え)」が合言葉となっていました。そして「花を描くなら、切り花を花瓶に挿して描く」というルールがあったのです。しかし、晩年のゴッホは、北斎の影響を受けて、そのルールを破って、野に出て、生命力に溢れた、ありのままの薔薇の木を生き生きと描いていきました。北斎は、光と影が色や形を作っていることに注目しました。晩年のゴッホも、北斎の影響を受けて、苦しみの多い現実の中で、同じように、光のあたりかたに注目していくことによって、囚われから解放され、「滅びの美」ではなく、あふれでる命の輝きをみつめ、希望を与えられたといえるのです。

 

 クリスマスも、私たちに与えられている光を見つめることによって、とらわれから解放され、滅びの美ではなく、キリストの命溢れる美、キリストの平和の美、この美しい光を見つめ、希望を与えられていく時です。

 

 ヨハネによる福音書は、クリスマスの出来事をこのように告げています。「闇は光の中で輝いている」。その光は私たちのために来てくださったイエス・キリストの光です。14節「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。有名な言葉ですが、大変含蓄のある短い文章です。けれどもその意味するところは簡単ではありません。

 

 この「言」というのは1から4節で繰り返されている「言」です。1~4節「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、始めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」。このように記されている「言」です。この「言」というのは、もともとはロゴスという言葉であり、全世界、全宇宙の秩序と生命を支配する原理、力を意味する言葉です。ここでいえば、神さまのみ心と力ということです。その神さまのみ心と力をあらわしてくださったのが神の一人子イエス・キリストなのです。

 

 そうであるならば、この「言葉」は「キリスト」と言い換えて読むとわかりやすくなります。初めからあり、神と共にあり、神であり、神の命そのものであったイエス・キリスト。そのキリストが天から下り、肉をとられた。乙女マリアからイエスとして生まれた。それがクリスマスの出来事です。神の独り子キリストが人間イエスとしてお生まれになられた。天の高みから下ってこられ、人となられた。そして、私たちの間に宿られたのです。

 

 神は天にいて私たちから遠く離れて、私たちを見捨てているのではなく、私たちを諦めずに、見捨てずに、私たちを愛し、私たちのそばにくださり、共にいてくださいます。私たちのすべての苦しみも悩みも痛みも、悲しみも死も罪も、すべてを分かちあい、担ってくださっています。私たちを神の子として、神と共に生きる永遠の命を与えてくださっています。「神、我らと共にいます」というインマヌエルの恵みが、イエス・キリストの到来と共に明らかにされたのです。

 

 肉眼で見れば、クリスマスの日に見えたものは、貧しい大工の息子が旅先の馬小屋で生まれたということでしかありません。特別変わったことではありません。しかし、聖書の視点、神さまの視点をもって見るならば、神の恵みと真理に満ちた栄光の輝きがありました。 「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。神が肉となり、人となって来て下さいました。主イエス・キリストに、神の栄光、神そのものが現れています。それは、恵みと真理に満ちているのです。光は闇の中に輝いている。闇は、この光を覆い隠すことは出来ず、光は私たちに迫り、私たちを包み込んできます。聖書を読むと、この光に包まれる時、不思議なことが起こるのです。


 世界中の教会でこのクリスマスによく読まれる祈りの言葉があります。アッシジのフランチェスコの平和の祈りと言われています。少し長いですが、このような祈りです。

「主よ、わたしをあなたの平和の器としてください。憎しみのあるところに愛を、傷つけあうところにゆるしを、疑いのあるところに信仰を、絶望のあるところには希望を、暗闇のあるところには光を、悲しみのあるところに喜びを与えられるように。ああ、主なる神よ、わたしが慰められるよりはなおいっそう慰めることを、理解されるよりはなおいっそう理解することを、愛されるよりはなおいっそう愛することを 求めるようにしてください。なぜなら与えることで、わたしたちは豊かに受け取り、赦すことで赦され、死ぬことで永遠の命によみがえるからです。」

 

 皆さんの中にも聞いたことがあるという方がおられると思いますし、この祈りが好きな方もおられると思います。この祈りがなぜ、クリスマスに読まれるのでしょうか。それはクリスマスがこの世界の平和を祈る時であるということだけではなく、この祈りの言葉、その祈りの内容に描かれていることが、ベツレヘムで飼い葉おけに眠る幼子のイエス・キリスト、私たちと共にいてくださる神に出会った人々に起こってきたことだからではないでしょうか。

 

 幼子の父ヨセフと母マリアは、ヘロデ王や心ない人々の憎しみ、侮辱、人を傷つける暴力的な世界の中でその小さな命を守る勇気と力を与えられました。羊飼いたちは、自分たちと同じように動物のにおいのする赤ん坊のイエス様の誕生から、神様の愛が本当に貧しいもの、小さなものを大事にする愛であり、その愛が人々から軽蔑されているような自分たちにも及んでいることを知らされました。そして神と人への信頼を回復され、絶望の中で希望を与えられて、かえっていきました。幼子にまみえた東方の学者たちは導かれて、権力に屈することなく、別の道を通って、勇気をもって帰っていきました。

 

 神さまが私たちと共にいてすべてを理解し、愛してくださっていること。この神の光に包まれるとき、神さまが共にいてくださることの慰めを与えられ、生かされ、導かれたのです。闇の中に輝く一人のみどりごを与えられた一人一人に、神の子として、神さまと共に歩んでいく新しい始まりがもたらされています。それは今、私たちにも起こっていくのです。

 

 この後、きよしこの夜、という讃美歌を歌います。「きよし、この夜、星は光り」という歌詞は、この曲のもともとの歌詞は、英語では「Silent night, holy night,All is calm, All is bright.」となっています。「静かな夜、聖なる夜。全ては静かで、全てが輝いている」。そして、その「all is calm, all is bright」の歌詞の後には、英語では「round」という言葉が入っています。取り囲んでいる、という言葉です。母であるマリヤと生まれたばかりのイエス、そして羊飼いたちの周り、そして、今私たちの周りを、静かなおだやかな、そして、神の栄光に満ちた輝かしさ、神の平和が取り囲んでいるのです。

 

 このクリスマス・イブの夜、たとえ、病気の中にあっても、悩みや苦しみの中にあっても、孤独や絶望の中にあっても、神共にあり、神との平和、神の愛が私たちを包んでいます。死の力も、どんな病も、どんな苦しみも、どんな力も、私たちをキリストにおける神の愛から引き離すことはできません。

 

 キリストという救いの光は今、暗闇の中で光り輝いています。その暗闇に射す光があること、キリストによって神共にいますことを信じる時、希望をもって人生を歩いて行くことができます。この時、私たちも、アッシジのフランチェスコの平和の祈りに心を合わせることから、希望をもって歩んでいきたいと思います。

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