東京主僕教会の最近一か月の説教など

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2017年12月31日主日礼拝説教(歳晩礼拝)

「嘆きを踊りに変えてくださる神」詩編30編       

 

 この年末になると、テレビでお笑い特番が競い合うように放送されています。今日も楽しみにしている方々もおられるかもしれません。

  このように特番が多く放送されているのは、「せめて年末年始を笑って過ごしたい」、「この一年を笑って締め括り、新しい一年を笑って始めたい」、こういう願いが多くの人にあるからであり、そのように願うのは、日々の生活の現実には笑うことのできない厳しい現実があるからではないでしょうか。それでは、聖書に従うならば、私たちはどのように年の終わりと始まりを迎えることができるのでしょうか。


 先ほど読んだ旧約聖書詩編は、旧約の昔の時代から礼拝で祈られてきたものですが、驚くことに詩編全体の2分の一近くが嘆きの言葉を神に訴える嘆きの詩編になっています。どうして嘆きの詩編がこんなに多いのでしょうか。それは私たちの人生の現実には順境の時よりはむしろ逆境の時、嘆かざるを得ない現実に直面することが多くあることを見つめているからです。

 

 嘆きの詩編のプロセスには順境の時、逆境の時、新境地の時という流れがあります。方向がはっきりしている。人生に確信をもって元気に歩んでいる平静の時、順境の時です。そして何かが起こり人生の方向性を見失う逆境の時に向かいます。絶望の淵に立ち、苦しい現実に直面する。そこでその嘆き、疑い、怒りや不安を押し隠すことなく、神に切実に訴えていく逆境の時があります。そしてその後、元の全く同じ現実に戻るわけではありませんが、新しい現実、新境地に至ります。驚かざるを得ない恵みを示され、新しい方向性が見えてきて、新しい始まりを与えられるのです。恵みに感謝し、希望をもって生きる歩みが始まるのです。このように嘆きの詩編には順境、逆境、新境地という流れがあり、私たちの人生の経験に触れてくるのです。

 

 この詩編の声に私たちの人生の逆境における経験を触れさせて、結び付けていくことが必要なのです。なぜなら、その時、詩編が私たちの経験を反映していることに気づき、自分の沈黙に言葉が与えられ、この詩編から逆境の中で開かれていく世界があり、神の恵みがあることを知らされるからです。この年の終わりを迎えているこの時、今たとえどんな逆境にあっても、私たちに与えられている神の恵みがあり、確かな希望があることを聞いていきたいのです。

 

 2節から6節には神さまへの賛美と感謝の言葉があります。この詩編の詩人が大変な苦しみに直面したことがわかるのは2節の言葉です。「あなたはわたしを引き上げて下さった」。この「引き上げる」という言葉は、もともと「井戸から水を引き上げる」という時に用いられる言葉です。具体的なことはわかりませんが、この人は深い井戸、深い穴の中にいるとしか思えない状況にあったのです。四方が八方塞がりでどうすることもできず、逃げることもできません。「陰府」という言葉があるように、自分は既に陰府にいる、死んだ屍のようになっていると感じています。本当に死に至るような重い病だったのかもしれません。あるいは何かのっぴきならぬ事態に直面し、人生に絶望し、自分はもう終わりだと思えたのかもしれません。しかしその状況から解放され、神を賛美していきますが、もう一つ注目したいのは6節の言葉です。「ひととき、お怒りになっても、命を得させることを御旨として下さる」。「一瞬は怒りの中に、命は恩寵の中に」と訳せる言葉です。神がお怒りになっているとしか思えない。けれども、命は恩寵、神の恵みの中に置かれている。このことを知ったのです。泣きながら夜を過ごした後、このことを知って、喜びの朝を迎えることができたのです。

 

 このように1節から6節まで神さまに祈り感謝した後、改めて、その出来事を振り返りながら祈っていくのが7節からのみ言葉です。詩人の人生の時間の流れの中で起こった始まりが7節です。「平穏な時にはわたしは申しました。『わたしはとこしえに揺らぐことがない』。主よ、あなたは御旨によって砦の山に立たせて下さったからです」。順境の時です。人生が順風満帆に行っている。平穏に元気に過ごせている。けれども、この時を今から振り返ると、「わたしはとこしえに揺らぐことがない」。「わたしは」とあるように、実は神ではなく自分に満足し、自分に自信をもっていた時でした。満足できるものを持っている、その自分を誇り、その自分への自信、確信に満ちていたのです。

 

 しかし、8節の後半で、突然、順境から逆境に移行します。「御顔を隠される」。神がいるのかと思える大変な出来事が起こり、その自分の自信、確信も信仰も崩れ去る。頼るべきものがなくなり、「たちまち恐怖に陥」いる。自分はどんなに脆い存在なのか、どんなに弱い自分、どんなに無力な自分、どんなに頼りない自分なのかに気づきます。そこで自分ではなく、神を頼りとし、神に助けを求め、神の憐れみを祈り求めていきます。10節にこうあります。「わたしが死んで墓に下ることに何の益があるでしょう。塵があなたに感謝をささげ、あなたのまこと、真実を告げ知らせるでしょうか」。この人は自分の全てを神の前にさらけだしています。自分が陰府に下り、死んでしまったら、自分は陰府から、神さまに感謝して賛美をささげるのか、あなたの愛を告げ知らせるのかというと、決してそうとは限らない。だから今癒してください、というのです。取引と思える程に一生懸命に祈っています。神の利益に訴え、助け手となって下さるように、言葉を尽くし、情熱をもって祈っていくのです。


 このように祈っていった時に起こる出来事、私たちにも起こる出来事を12節から知ることができます。「あなたはわたしの嘆きを踊りに変え」とあります。この「変える」という言葉は「ひっくりかえす」という意味をもっています。嘆かざるを得ない者、罪故に滅びていく存在であり、死に至る病を負っているわたしたち。その私たちがひっくり返され、神と共にあり、神によって背負われて導かれていく新しい命が与えられている。新しい命を与えられ、新しい存在にされて、希望を与えられ、踊るような喜びを与えられたのです。そのことを私たちも祈りを通して、御子イエス・キリストに出会って知らされるのです。


 長崎に原爆が落とされた時、病院の医師をしていたある先生が、病院に運び込まれてくる体中やけどで覆われて痛みと渇きに苦しむ人たちの看護をしていると、うめき声があちこちから聞こえ、その後に祈りの言葉が聞こえてきました。そのことがこの医師の生涯を変えていったのです。この苦しむ人々は言葉がしゃべれないほどなのに、主の祈りなど、この人々の祈りの言葉が聞こえてきたのです。地獄のような状況の中で祈り、地上での最後の息を祈りとともに引き取ったことを知った医師は、祈りで病気が治るということではなく、祈ること自体が救いである、という確信を与えられ、この祈りに導かれるように洗礼を受けたということです。祈りを通してキリストと出会い、私たちに代わって罪を負い死んでくださり、しかも死を打ち破って復活し、わたしたちの絶望に終止符を打ってくださったキリストに希望を与えられたのです。


 クリスマスから1月6日あたりまで降誕節は御子イエス・キリストのご降誕の意味を思いめぐらす時です。先ほど読んだヘブライ人への手紙2章10節~18節はこの降誕節に読まれる聖書のみ言葉の一つです。そこには、神の子であるキリストが、私たちと同じ血と肉を備えて、私たちと同じ者としてお生まれになったことが言われています。そして生涯かけて私たちの試練、私たちの苦しみを経験し、私たちのために死なれ、私たちの罪を償い、私たちのために復活し、死を滅ぼしてくださった、とあります。


 神の身分であったキリスト。永遠の昔から神と共にあったキリスト。キリストにも順境の時がありました。このキリストが天を裂いてくだられる。自らを投げ捨てご自分を無にして低きにくだり、へりくだって、深い淵、それも十字架の死に至るまで、絶望の淵、死の陰の谷にまで赴かれ、低く下られました。キリストの逆境の時です。そして、三日目に復活し、復活の命へと導かれる。キリストの新しい境地です。私たちの順境の時も逆境の時もこのキリストが共におられ、キリストに担われています。私たちのために人となり、馬小屋に生まれ、低きにくだり、私たちの悲しみと嘆き、私たちの苦しみをご自分のものとして取られ、担い、分かち合ってくださり、私たちにご自分の復活の命を与えてくださっているキリストに出会う時です。このキリストが共におられるからこそ、絶望を抱えていても、答えのない問いを抱えていても、希望をもつことができます。


 2010年に起こったチリの鉱山落盤事故で地下の深いところに閉じ込められた33人が約70日後に救出されたとき、この人たちのTシャツには詩編の言葉がプリントされていました。そしてその中の一人がこのように言った言葉が報じられています。「地下にいたのは33人ではなく、34人だった。神が我々と共にいたからだ」。深い淵、暗闇の中で、詩編の言葉を通して神共にいます命に生かされて、喜びの朝を迎えたのです。


 私たちのこの一年の歩みにもいろいろなことがあったかもしれません。けれども、喜びの朝を迎えています。聖書の言葉によって、私たちのすべてを担って共にいて新しい命を与えてくださるキリストに出会い、支えられ、導かれていることを知らされているからです。聖書の言葉に促され、導かれて、新しい命を与えられて生かされてきました。来る来年も、私たちは聖書の言葉によって促され、導かれて、生かされていくことができます。キリストに出会っていくことができます。嘆きを踊りに変えてくださる神が共におられるのです。

 

 最後の「感謝する」とは、単に「ありがとう」という言葉ではありません。もともとは「投げかける」という動詞から生まれたもので、自らを神さまに投げていくこと、神様にゆだね、神さまの御手の中に自分を置いていくことです。この朝、この一年、イエス・キリストが共にいてくださり、神の恵みの中に私たちをおいてくださっていたことを感謝し、自分をゆだねて、希望をもって、新しい年の歩みに向かっていきたいのです。