東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2018年1月7日礼拝説教

「主によって喜び祝え」詩編33編            

 

 昨年の暮れからこの年の始まりにかけて歌番組を見たり、聞いたりする機会が多くあります。歌には人を元気にし、力を与える不思議な力があります。人を癒し、幸せな気持ちにする不思議な力があります。

  皆さんもお一人一人、好きな歌手がいて、好きな曲があると思います。疲れた時や大変な時、また何かをする時など、好きな歌を聴いたり、歌ったりして、元気を与えられ、勇気を与えられる時があると思います。


 この詩編33編は旧約の時代のイスラエルの人々の新年の祝い、新年の礼拝で歌われ、祈られてきた言葉であるとも言われています。けれども、この詩編のみ言葉は何も不安のない状況の中で生まれたのではありません。詩編は旧約の時代のイスラエルの人々の信仰生活の中で生み出されてきました。イスラエルは紀元前6世紀、当時のバビロニア帝国に滅ぼされ、信仰の中心であった神殿を失い、故郷を奪われ、人々は遠くバビロンの地へ捕囚となっていきました。神殿に集まることができなくなった人々は、自分の住んでいる場所にシナゴーグと呼ばれる小さな会堂を作り、安息日ごとに集まって礼拝をささげていきました。150編もある詩編はその礼拝の歴史の中で長い時間をかけて生み出されてきた祈りの言葉です。今日の詩編に「十弦の琴」とあるように、詩編は楽器を用いて祈りの歌として歌われてきたこともわかるのです。


 けれども、この詩編は神を信じていたのに、神に選ばれた民だと信じてきたのに、破れの中を歩かなければならない。その失意の中にあって祈られ歌われてきた言葉です。私たちには喜び、楽しみ、笑う時があります。しかし同時に深い淵、暗闇、だれにも打ち明けられない不安、悩みや苦しみ、呻きを内に秘めています。しかしその中で繰り返し見つめていくのが「主」です。限りなく深い不安、闇を抱え、ともすると押し流されてしまう。自分ではどうすることもできない破れ、立ち直れない失意の中にある。自分には呻きと不安、つぶやきと妬みと愚痴しか見いだせない。しかしそう思っていたのに、主を仰いでいく時、確信と希望を与えられ、賛美するものに変えられていくのです。それが詩編であり、「新しい歌」を歌うということなのです。


 しかし、この歌の歌詞であるみ言葉を読んでいくと、1節の「主を賛美することは正しい人にふさわしい」という言葉に少し気がひけてしまう自分がいます。「正しい人」という言葉は、まっすぐな心で、主なる神さまに向かって従っていくということです。しかし旧約聖書を読むと、捕囚の時代の人々がみな、正しい人であるとは決して言い切ることはできません。むしろ反対に罪を抱え、破れを抱えていました。私たちも礼拝から送り出される日々の置かれた現実の中で、しばしば神を忘れ、罪を積み重ね、知らず知らずに神ならざるものに心が支配されてしまいます。いつの間にか聖書の福音とは違った価値観に従っていることに気づきます。決して、自分は正しい自分である、と神さまに胸をはって言うことはできません。しかし、この一年、そのような者を繰り返し招き、導いてくださり、「正しい心」、神に対するまっすぐな心を回復し、希望を与えてくださるのが主のみ言葉なのです。


 この主のみ言葉という時に、この詩編の詩人がいつも繰り返し見つめていく大事な言葉があります。それはこの一年の新しい歩みを始めていく私たちにとっても繰り返し見つめていくべき大事な言葉です。5節と18節、そして22節の「慈しみ」という言葉です。神の人間に対する契約、約束を守る愛、神の永遠不変の愛を表す言葉です。礼拝で悔い改めの詩編として直前の32編を読む時がありますが、その32編6節では、罪の赦しを指して、そこに神の愛、慈しみが現れていると言っています。そして、この33編ではさらに進んで、地、この世界に慈しみ、神の愛が満ちている、それが賛美できる理由なのだ、というのです。しかし、どうしてそう言えるのでしょうか。

 

 6節から読んでいくと、天地創造の出来事をさして、神さまは愛をもってみ言葉によって、この世界の全てのものを造り、大地と海を分けられ、しかも深淵にまで、すみずみまで神の力は働いて、全てを創造されたと言っています。「主が仰せになると、そのように成り、主が命じられると、そのように立つ」。覚えやすい言葉です。天地創造に働いた主のみ言葉の偉大な力を思い起こす時、その主の力が、造られた全てのものを愛のうちに完成していくために今も働いていることを見るのです。

 

 「主は国々の計らいを砕き、諸国の民の企てを挫かれる。主の企てはとこしえに立ち、御心の計らいは代々に続く」。この言葉はアメリカで同時多発テロが起こった時に教会でよく読まれた聖書のみ言葉のようです。この一年、何がこの世界に起こるのかはわかりません。けれども確かなことはどんなものも天地万物を創造し完成させていく神の愛の御心を妨げることができないということです。歴史の中には幾つもの強国がおこり、当時の世界を支配し、暴虐をほしいままにしたかに見えたときがありました。しかし不思議なことに、それらの国々は皆、いずれも倒れていきました。この世界の歴史は、終わりには神の見えない手によって導かれ、神の企てと計らいが成っていくのです。 私たちには恐れと不安を与える多くのものがあります。けれども、何があっても、この世界を創造された神が責任をもってこの世界を支配し、愛と恵みの御心をもって、救いを完成するために共にいて導いて働いてくださっています。「主の企てはとこしえに立ち、御心の計らいは代々に続く」。だから、この世界に希望をもつことができるのです。


 そしてこの詩編の詩人が見ているのはこの世界に注がれている神の愛だけではありません。この世界に働いている神の大きな慈しみ、神の大きな愛がまさにこの自分に及んで支配しているということです。そのことを12節から見つめていきます。神は私たちを愛し、選び、神の子、嗣業の民としてくださいました。13節からは私たち一人一人に対する神さまの働きが語られています。「天から見渡し」、「ひとりひとり御覧になり」、「目を留め」、私たちを「見分け」、見抜き、私たちのために考え、配慮し、共にいてくださいます。19節には、「死から救い」だし、神と共に生きる「命」を得させてくださいます。この神さまの愛の御業がこの一年、私たちに与えられているのです。


 16節と17節の聖書のみ言葉も有名です。「王の勝利は兵の数によらず、勇士を救うのも力の強さではない。馬は勝利をもたらすものとはならず、兵の数によって救われるのでもない」。人間の歴史は 「王の勝利」、「馬の勝利」、「兵の数」といった人間の「力の強さ」を頼りにして賛美してきた歴史です。しかし、そこに救いはありません。私たちが救われるのはただ神の慈しみ、神の愛によるのです。この神の慈しみを私たちに注いでくださっています。

 

 今、希望が見えづらい現実があるかもしれません。神の支配があることがわからなくなる時があるかもしれません。しかし、この詩編によるならば、神の支配を見出し、希望を与えられていくことができるのは、自分に注がれている神の慈しみ、神の愛を見つめていくことによります。この共にいてくださる神の確かな愛がキリストの十字架に示されているのです。

 

 先日の新年初週祈りの会ではヘブライ人への手紙の2章のみ言葉を読みました(402p)。その8節から9節には今日の詩編のみ言葉と同じ大事な考え方が記されています。

 

 キリストが「全てのものを足元に従わせられている。しかし、私たちはいまだにすべてのものがこの方に従っている様子を見ていません」。それは私たちも様々な時に思ってしまうことなのです。しかし、そうであるならば、どうしたらよいのでしょうか。その時に見つめていくもの、それが何かが記されているのが9節です。ヘブライ人への手紙の説教者はこのように語ります。「天使たちよりもわずかのイエスが死の苦しみのゆえに「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです」。キリストの十字架の死によって、神は支配されている、この十字架に神の支配が現わされ、そして私たちに対する神の愛が現れています。私たちもまたキリストと共に神のもとに引き上げられ、神の栄光と栄誉の冠を授けられ、神に愛されています。ここに希望があるのです。


 この一年、私たちに何が起こるのか、わかりません。目に見えるものだけを見つめていくなら押し流され倒れてしまいます。けれども、神の言葉に聞いて見つめていく時、十字架のキリストに出会い、深い淵、闇の中にいる私たちを神が愛し、共にいてくださることを知ることができます。私たちを引き上げ、神の子として背負い、私たちとこの世界を支配し導いてくださっています。だから、絶望に支配されず、希望を持って歩んでいくことができます。

 

 礼拝で主と出会い、主の愛を見出し、主を喜び祝い、賛美して、主を待ち望んでいくこと。それが私たちのこの一年の力の源です。この朝、十字架に示されている神の愛に希望をもって歩んでいきたいと思います。