東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2018年1月14日礼拝説教

「神の呼びかけに答えて生きる」サムエル上3・1-10   

 

 『眠られぬ夜のために』という本があります。1901年、スイスの国際法の学者で、思想家でもあり、キリスト教の信仰者であったカール・ヒルティが書いた本です。今でも多くの人がこの題に引き付けられて、手にしたり、読まれているようです。

  この本は特に若者向けに書かれたようですが、聖書の言葉を引きながら、眠れぬ夜をいたずらに嘆くのではなく、日々怠りがちな自己反省のための時間として活用することを呼びかけています。この本が多くの人に今もなお手にされ読まれているのは、人生には不安を抱え、良く眠れないつらい夜がある、その夜にどう対処していくのかが、多くの人の課題だからです。それは私たちの課題でもあります。


 今日のサムエル記にも、少年サムエルの良く眠れない夜の出来事が記されています。私たちに不安で眠れない夜があります。その理由は様々であり、それに対処していく方法も様々です。けれども、この不安な夜を過ごしたサムエルの在り方から、人生を平安をもって生きるあり方が示されています。新しい一年を迎えている私たちですが、不安を与える多くのことに取り巻かれています。けれども、今日の聖書のみ言葉に、不安が繰り返し起こってくる人生の現実の中で、平安を与えられながら、困難を乗り越えていく道が示されています。


 少年サムエルは紀元前1200年も前の昔のイスラエルの人ですが、エルカナとハンナという夫婦に与えられた男の子でした。ハンナはサムエルが生まれる前に、神さまに「もし男の子が与えられたら、その子の一生を神さまにささげます」と誓いました。そしてハンナはサムエルが3歳になった時、その言葉を守り、当時の神殿の祭司エリという人にサムエルを預けたのです。祭司は、神さまと人々との間に立って、神さまの言葉を人々に伝え、導いていく仕事をしていました。


 「そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることも少なかった」とあります。決して主の言葉が語られることは少なかったということではないと思います。その頃、エリの子供たちは堕落し、自分の欲望に従って仕えていました。確かなことは、そのために語られた主のみ言葉がわからず、主の御心が明確に聞き取られなかったのです。しかし、そのような時代に、エリはまじめに仕えてきたのです。そのエリのもとに預けられたサムエルは、神殿に寝泊まりしながら、エリの仕事のお手伝いをしたり、学んでいたのです。そのサムエルがある夜、神殿の神の箱のそばで眠っていたときに、不思議な出来事が起こります。自分を呼ぶ不思議な声を聴いたのです。


 今朝、特にサムエルが答えた言葉に注目して聞いていきたいと思います。4節「ここにいます」と答えています。この「ここにいます」という言葉は4節にしか出てきませんが、実際には、呼ばれるたびに同じように「ここにいます」と答えていたとしても不思議ではありません。想定外のことが起きた時にでてくる反応はその人の本質、習慣を示すからです。これまでエリに仕えてきたサムエルの「ここにいます」という言葉は、単に、わたしはここにいますよ、という言葉ではありません。自分を呼んだ人が、その時、すぐに自分のところに来て、自分に何か言っても、それを聞いて行っていく準備が私にはありますよ、ということです。


 考えてみると、この言葉はなかなか口にできる言葉ではありません。このサムエルのように、自分が呼ばれた時、何を考えていたとしても、「ここにいます」と言って、すぐに自分をその相手に直面させ、対応していくことは、いつもできることではありません。心の準備が必要です。心の中に人には知られたくないこと、隠していることがあるのが人間の現実だからです。


 森有正という人の有名な言葉があります。「人間というものは、どうしても人に知らせることのできない心の一隅をもっております。醜い考えがありますし、また秘密の考えがあります。またひそかな欲望がありますし、恥がありますし、どうも他人に知らせることのできないある心の一隅というものがあり、そういう場所でアブラハムは神様にお眼にかかっている。そこでしか神様にお眼にかかる場所は人間にはない。…人にも言えず親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる、また恥じている。そこでしか人間は神様に会うことは出来ない」。


 サムエルもこの時、何か悩みや不安があったとしても不思議ではありません。醜い考えやひそかな考えがあったとしても不思議ではありません。誰だって欠けがあり、弱さを抱えています。けれども、そこで神さまは出会い、その欠けや弱さのある私たちを受け入れて、語りかけてくださっています。神さまに語りかけられたサムエルは、その弱さを抱えている自分を受け入れて、その自分を神さまにさらけだし持ち出しながら、神さまに答えていくのです。だから、「ここにいます」という言葉は、私の居場所はここにある、という平安と確信が満ちているのです。不安の中で、自分が何者なのか分からなくなる。居場所がわからなくなる。自分を見失ってしまう。そのような時、この神さまが、どんな私たちであっても愛し受け入れてくださり、呼びかけてくださっているからこそ、ここに私の居場所がある、ということができるのです。神に呼びかけられ、神の言葉が語られ、聞いていく時、人は神の前に自分の居場所をはっきりと知るようになるのです。聖書を通して神の言葉に聞いていく時、「あなたはここに居て良いのだ」、このメッセージが私たちを平安と確信に導くのです。


 今朝読みましたルカによる福音書の2章には、イエス様が自分の居場所を語る言葉がでてきます。12歳になったイエス様は、エルサレムに連れて行かれた時、両親のもとからいなくなり、神殿で発見されています。その時、少年のイエス様は、「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だ」と答えておられます。自分の居場所はここにある、と言われています。イエス様は、サムエルのように、神さまの呼びかけに「私はここにいます」と答え、神さまの言葉に聞いて、自分の居場所を見出してきたのです。考えてみると、この後のイエス様の生涯は、「ここにいます」という言葉が明確に記されているわけではありませんが、「わたしはここにいます」と弱さを抱える自分を受け入れ、神さまに持ち出しながら、神さまの呼びかけに答えていった歩みであったと言えます。


 荒れ野の誘惑の時、サタンの誘惑に心を引き裂かれながら、「わたしはここにいます」と答えていかれました。愛する友ラザロが死んでしまった時、涙を流し、嘆き、怒りながら、私はここにいます、と答えられました。逮捕され、十字架にかけられる前に、父よ、御心ならばこの杯をわたしから取りのけてください、と必死に願いながら、私はここにいます、と答え、苦しみもだえ祈られました。そして、十字架で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と訴えながら、「私はここにいます」と答え、祈っていかれました。そして、最後に、神殿の垂れ幕が裂かれ、神さまが共にいてくださることを知って、「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」と祈られました。「父よ」と言われたように、自分がどこまでも共にいてくださる父なる神の子供であり、自分の全ては神さまのものであることを知って、平安を与えられたからです。


 この一年何が起こるのかわかりません。これからも眠れぬ夜があり、不安に支配される時があるかもしれません。けれども、その時こそ、神さまは、このサムエルのように、私たちの名前を呼び、語りかけておられることを思い出していだたきたいのです。私たちのこの時代にも「神のともし火は消えて」いないのです。神の御子イエス・キリストが私たちのもとに来て、共にいて、私たちも呼びかけられています。


 ハイデルベルク信仰問答の有名な言葉「問い 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。答え わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです」。私たちもイエス様の十字架の死と復活によって、何があっても今もこれからも、神さまのもの、神さまの子供とされています。どんなに弱い自分、欠けのある自分、醜い自分に思えても、その自分を神さまは受け入れて、ご自分のものとしてくださっています。だから、ここに自分の居場所があることを知り、その自分を受け入れて、嘆きや不安を訴えながら、「ここにいます」と、自分をゆだねて、答えていくことができるのです。神さまはその私たちにみ言葉を与え、導いてくださいます。


 この眠れぬ夜に起こったこの出来事は、サムエルの人生に朝を与え、新しい始まりをもたらしました。私たちも新しい始まりがもたらされています。私たちも「ここにいます」と神さまに答え、聖書を通して神さまの言葉を聞き、神さまに仕えていく僕として歩んでいきたいのです。