東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2018年1月21日礼拝説教

「イエスの招きに従って」マルコ1・14-20    

 

 今年に入って発行された『物語のおわり』という湊かなえという方の小説があります。はじめにでてくる「空の彼方」という未完の物語、結末のない物語が、旅人から旅人へと手渡され、それぞれ悩みを抱えている旅人が、その未完の物語を読み、自分だったらどのように物語を締め括るのかを考え、そして自分自身の答えも得ていくという物語です。この小説は、未完の物語から今を生きる力を与えられる、ということで、最近話題になっているようです。

 

 考えてみると、聖書も終わりのない物語と言えるのです。聖書の大きな物語は、神の国の完成の時に至るまで、終わりはありません。それは特に先ほど読みましたマルコによる福音書にも言えることです。この福音書も未完の物語といえるのです。イエス様が復活された後、空の墓に行った婦人たちは、神のみ使いに「ガリラヤへ行きなさい。そこでイエス様にお目にかかれる」と言われ、恐怖に陥って突然終わってしまうかのように思えます。けれども、弟子たちは、このマルコの始まりにあるように、その後、ガリラヤで再びイエス様に出会い、招かれて、従っていくのです。そのように生きるようにされていくのです。イエス様に繰り返し出会い、招かれ、従っていく。それが聖書の未完の物語であり、私たちもこの聖書の未完の物語に従って、連なって、この未完の物語から今を生きる力を与えられていくのです。

 

 その弟子たちが今を生きる力を与えられたもの。そのイエス様との出会いが最初に起こったマルコによる福音書の始まりには、「時は満ち、神の国は近づいた」(1・15)という言葉があります。この「時」という言葉はもともとのギリシャ語ではカイロスという言葉です。ギリシャ語の時間を示す言葉にはカイロスともう一つ、クロノスという言葉があります。時間が過去から現在へ、そして未来へと自然に流れていく時間、永遠に流れていく時間です。けれども、ここでは自然に流れていく時間のクロノスではなく、カイロスが使われています。歴史が変わり、人生が変わる決定的な時、歴史の転換点、人生の転換点を示す言葉です。ギリシャ神話にはクロノスという王がでてくる話があります。クロノスは自分の息子達に王の位を奪われることを恐れて次々と息子達を呑み込んでいきます。全てを呑み込んで、何も残さず、永遠に続いていく。この時間の感覚は「行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」という方丈記にもあります。この時間の感覚は無常感、空しさ、あきらめを生み出すのです。

 

 しかし、2018年の1年の歩みを迎えていますが、私たちはこの一年、全てのものが流れ去っていく空しい時の中に飲み込まれて歩んでいくのではありません。この1年のクロノスという時の流れの中で、確かなカイロス、神の支配に満ちている「私のカイロス」、「私の人生の転換点」と言える時を備えられ、与えられて、人生を歩んでいくことができるからです。

 

 今日のマルコの福音書には、クロノスという時間の中でカイロスという時を与えられ、人生を変えられていった人々がでてきます。「時は満ち、神の国は近づいた」。イエス様によって実現し完成されていく神の国、神のご支配が決定的にはじまっています。そのカイロスの時がイエス様を通してこの4人に接触し、神のご支配が現れて、それぞれのカイロスという時となり、人生を変えられていったのです。それは私たちの人生にも起こっていることなのです。

 

 イエス様がガリラヤ湖のほとりを歩いておられる時、最初に二人の兄弟、シモンとアンデレの兄弟に目をとめ、声をかけられます。このシモンは後にペトロと呼ばれます。「この二人が湖で網を打っているのをご覧になった」と記されています。この二人は漁師でした。この後に登場するヨハネヤコブの兄弟も漁師でした。漁をした後、次の漁に向けて、網の手入れをして準備をしていました。このヨハネヤコブの兄弟には「雇い人」たちがいたことから、それほど貧しくはなかったことが分かります。しかし、ペトロとアンデレの兄弟も、ヤコブヨハネの兄弟も、「わたしについて来なさい」と言われると、すぐにイエス様に従っているのです。

 

 イエス様にこのように言われた後、その心には何か葛藤があったはずだと思いますが、そのことは何も書かれていません。弟子たちが何を考えて、どのように決断し、従っていくことを選び取ったのか、そのことは何も書かれていません。この人々が何を考え、どうして決断したのか、そのことが少しでもわかれば、参考になるのにと思えます。けれども、マルコによる福音書がこの過程を省いているのは、その過程はポイント、大事なことではない、と判断しているからです。

 

 マルコによる福音書にとって、それよりも大事なこと、この四人を支え、人生を大きく変えていったのは、イエス様がこの四人を探し出し、ありのままを受け入れ、従うように招かれた、という神さまの御業です。そして、この四人をイエス様と一緒に歩んでいくものとして、イエス様のものとしてイエス様と一緒に歩む者に変えられたという神さまの大きな御業なのです。

 

 私たちもこの朝、この聖書のみ言葉を通して、イエス様に出会っています。イエス様は私たちを探し出し、イエス様と一緒に歩む者、イエス様のものとして人生を歩む者としてくださり、イエス様に従うように招かれています。このことがこの後の四人の人生を支え、生かし、変えていくのです。この四人は「ガリラヤ湖のほとり」でイエス様に出会っていますが、マルコによる福音書では大事な意味があります。この「ガリラヤ」という言葉は、この福音書の終わりにも出てきます。

 

 イエス様が復活された朝、空になった墓に行った女性たちに、神のみ使いは「さあ、行って、弟子たちと一緒にペトロに告げなさい。あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われた通り、そこでお目にかかれる」と言っています。この言葉を聞いた時、ペトロやヨハネたちはどんなに喜んだことでしょう。イエス様に招かれ、従ってきた弟子達は、イエス様が捕えられると、イエス様を見捨て、逃げていったからです。特に、ペトロは、イエス様を否定しないと誓いながら、三度も否定して逃げ去りました。そのことを後で振り返り、嘆き、泣き続け、途方に暮れて、家に閉じこもります。人生の大きな危機です。しかし、その危機に中にあるペテロが立ち直ったのは、最初にイエス様に出会った時と同じように、ガリラヤで復活されたイエス様に出会ってからでした。イエス様を三度否定した自分、その自分をありのままを愛し、受け入れ、赦してくださっている。その自分を必要として、用いてくださる。そのことを知ったからです。

 

 私たちの人生の歩みにも失敗や挫折があります。希望を失う時があります。この一年、私たちに何が起こってくるかわかりません。良いこともあれば、失望したり失敗したり何か起こって立ち直ることができないと思える時もあるかもしれません。けれども、どのような時も、私たちを支え、力を与えていくのは、イエス様がこのように私たちを探し出し、出会ってくださっていることです。ありのままの私たちを愛し、受け入れ、赦してくださっていることです。私たちをご自分と共にいる者、愛する神の子として、神のものとしてくださっていることです。どんな私たちであってもその私たちを必要として用いてくださることです。

 

 たとえ人の目には、自分には無意味におもわれる人生であったとしても、その人生には重大な意味があります。主が探し求め、出会い、愛し、必要として下さっている存在であり、人生なのです。主はこの人生に御自分の愛の御心を行い、御自分の恵みを表して、用いて下さいます。「人間を取る漁師をしよう」。この言葉は神と人に仕える者として神に用いられるものとしてくださる神さまの約束であり、その約束をイエス様は私たちの人生に実現してくださいます。

 

 ある牧師が数日後に重い病で召される人を訪問した時、「今恐れはありますか」と聞きました。その人は「イエス様を信じているから恐れはありません」と答えました。「私たちの未来は全て神の御手の中にあるから希望がありますよね」と言うと、この人は答えます。「確かにそうだけど、これまでに私が経験したことから、希望をもっているのです。これまでの人生を振り返ると、たくさんの失敗、過ちをしました。イエス様から何度も離れ、自分の道を行き、迷い、失われた羊のようになりました。けれども、イエス様はその自分を何度も何度も探し出して下さいました。自分がイエス様を探していない時にも探しだし、見つけ出し、捕えて、用いて下さいました。私に対するイエス様の愛は死の力も打ち負かすことはできないと思っているからです」。

 

 私たちも今朝、イエス様に招かれ、イエス様の愛にとらえられ、イエス様と共に歩む者とされています。イエス様は私たちを用いて、神の御心を行ってくださいます。神のご支配は私たちに及んでいます。「全てを捨てて従っていく」。それは自分の全てをまずイエス様に委ねていくことです。イエス様の御手の中に自分を置いていくことであり、委ねていくことです。イエス様に自分をゆだねていく。それによって、私たちも大きな転換を与えられ、それまでとは違った、神と共に生きる新しい人生を歩み出していくことができるのです。