東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2018年1月28日礼拝説教

「祈りの道を共に歩む」ルカ11・1-4         

 

 東京主僕教会は創立61年目の歩みを迎えていますが、この1年は祈りをテーマとして学んでいくことにしています。特に「信仰の学びの会」などで、この1年は主の祈りを中心に聖書の祈りを学び、聖霊の導きを願いつつ、祈りの上に歩みを築き上げ、祈りによって進んでいくことを大事にしていきたいと思います。

 

 私たちが連なる日本キリスト教会の横浜海岸教会の歴史を見ると、明治の時代、宣教師によって始まった教会の歩みが祈祷会を中心に、祈りから始まる伝道が展開していきました。本日の総会議事資料にありますように、この年の私たちの教会と信仰者の生活の中心は祈りであり、信仰者の営み、教会の営み、伝道の営みに祈りを欠かすことはできません。この朝、私たちを教会へと招いてくださったイエスさまも、福音書を読むと、一日の始まりや伝道や奉仕などを始める前に、祈ることから全てを始めておられます。イエス様の歩みが祈りの旅路であったように、イエス様に招かれて従っていく私たちの歩みも祈りの旅路です。すべては祈りから始まるのです。

 

 祈りは神との対話であり、信仰者の呼吸、信仰者の生き様であると言われてきました。でも、さあ祈ってください、と言われても、祈ろうとしても、どう祈ったらよいのか分からない時もあります。特に教会に通い始めたばかりの時など、何を祈ったらよいのか、他の人のようには祈ることができないと不安になり、ためらってしまいます。しかし、それは当然のことなのです。そもそも、初めは、誰もが他の人々の祈りを聞いたり、聖書の祈りから祈ることを学んできました。だからそれは当然なことなのです。まず祈りは借り物でよい、考え出すより真似るもの、思いあぐねるより学ぶものと言われてきました。聖書でも、ルカによる福音書1章のマリアの美しいマグニフィカートと呼ばれる祈りも、その内容を調べていくと、マリアは旧約のハンナの祈りを学び、ハンナはモーセの祈りから学んだことが分かります。聖書の信仰者たちも時間をかけて、本来自分のものではない祈りから少しずつ学んできたことが分かるのです。

 

 そのことはイエス様の弟子たちも同じでした。弟子たちもイエス様が祈っていた時、「祈りを教えてください」とお願いし、祈ること、後に「主の祈り」と呼ばれる祈りを教えられ、弟子たちの新しい歩みが始まったのです。この一年、私たちも「祈りの道を共に歩む」ために、今朝、このみ言葉からしばらく聞いていきたいのです。

 

 今日のルカによる福音書11章やマタイによる福音書の6章に主の祈りの教えがあります。私たちが礼拝で祈る主の祈りは、このマタイとルカのみ言葉からとられ、昔の時代から大事にされてきましたが、「国と力と栄えとは限りなくなんじものなればなり」、この賛美の祈りはありません。けれども、聖書の大事な祈りとして、教会の歴史の中で加えられてきたのが最後の賛美の祈りです。信仰者とは主の祈りを祈る者であると言われてきました。主の祈りを暗記されている方も多いと思います。病気になっても、たとえ物忘れがひどくなっても皆で祈れる祈り、それが主の祈りです。教会の交わりにとって大事な祈りなのです。

 

 けれども教会に初めてきた人が主の祈りを暗記できるまでには時間がかかります。信仰の長い人もふと忘れてしまう時があるのです。主の祈りは実は覚えにくい祈りだと言えるのです。それはなぜでしょうか。確かに主の祈りは覚えにくい古めかしい文体です。けれども、それだけではなく、それ以上に、その内容が私たちの自然の心の動きに逆らったものだからです。

 

 仮に主の祈りがこのような祈りだとしたら覚えやすいかもしれません。

そばにいてくださるわたしの神よ。わたしの名前を憶えてください。私の縄張りを大きくしてください。私の願いを実現してください。わたしに一生食べ物を与えてください。わたしに罪を犯す者を罰し、私の正しさを認めてください。わたしが誘惑にあって悪に溺れても、私だけは見逃してください。国と力と栄とは限りなくわたしのものであるように」。主の祈りの順番に沿って、反対の意味で言い直したものです。正直言って、このような祈りこそ、本来の自分の中にある祈りの言葉であると言えるのです。

 

 祈る時、心の中にある全ての願いを神さまに訴えて祈る、何を祈ってもよい。それが旧約の時代からの祈りです。しかし、主の祈りは違っています。自分ではなく、まず神さまのことを大きくしていく祈りです。神さまをあがめ、神さまの御心がなるように祈り、神さまの御国が来るように祈る。それは、私たちの生まれついての心の願い、傾きに逆らいながら、私たちの中から決して生まれない特別な願いを祈り、特別な生き方を願っている。それが主の祈りなのです。

 

 主の祈りの言葉はイエス様の祈りの言葉であり、イエス様の願い、イエス様の生き方も示しています。主の祈りを祈る時、私たちもイエス様のように「天にまします我らの父よ」と呼びかけます。むしろ、父なる神にイエス様と一緒になって呼びかけます。その私たちの心が、神がおられる天にまで引き上げられ、広い世界へ解き放たれていきます。この祈りに心を合わせていく時、神の国、神のご支配に生きる者として、自己中心な思いから引き戻され、イエス様と共に神に感謝して祈り、神と人とに仕えていく者に変えられて、癒され、解放されていくのです。そもそも自分のものではなかった祈り。この主の祈りによって、自分が支えられ、変えられて、内なる人が新たにされていく。それが祈る人に起こることであり、私たちにも起こり、私たちも経験してきた神さまの恵みの奇跡なのです。

 

 今日主の祈りのすべてのことを学ぶことはできません。けれども、この朝、覚えたいことは、私たちが「父よ」と呼びかける神が、どのような神であるのか、ということです。どうして、父よ、といつも呼びかけることができるのでしょうか。そのことが主の祈りを祈る時に大事なのです。だからこそ、この祈りの教えの後、すぐに5節から13節で、神さまがどういうお方なのか、二つのたとえをもって教えられているのです。神さまは自分の子供が外で飢えて食べ物がなく困っているのに、自分自身はベッドに入ってすやすや眠っているお方ではありません。愛する子供が卵を欲しがっているのに蛇を与え楽しむお方ではありません。人間の親が自分の子供を愛し、配慮してよいものを与える。それ以上に、父なる神は、私たちの願いや期待以上に私たちの求めを満たしてくださる神なのです。どんな時も、私たちを愛し、配慮し、良いものを与えてくださる慈しみ深い神であり、何があっても、私たちはその子供とされています。放蕩息子の父親のように、私たちが父よと呼びかける時、どんな者であっても、私たちのことを待ち望み、駆け寄り、抱きしめて、祝宴を開いてくださる神なのです。

 

 私たちには様々な出来事の中で神の御心が分からなくなる時があります。けれども、聖書によれば、神は私たちを養い、赦し、守り、必要なものを与えてくださることを永遠不変のみ心としてくださっている神であり、そのために備え、そのように行ってくださる神なのです。言い換えれば、神は私たちが祈ることを待ち望み、私たちの祈りを必ず聞いてくださる神、私たちの祈りに必ず答え、良い物を与えてくださる神です。この神の愛が私たちに注がれて、支えられ、導いてくださるからこそ、私たちはこの神の愛に感謝して、「天にまします我らの父よ」と自分を委ね、祈り始めることができるのです。

 

 最後に、主の祈りに「我、わたし」という言葉ではなく、「我ら、わたしたち」という言葉が何度も出て来ることに注目したいと思います。それは、私たちが人生の旅路において決して一人ではなく、一緒に「我らの父よ」と祈る旅の仲間がいるということ、一緒にイエス様の兄弟姉妹とされている神の家族、仲間がいるということです。教会に招かれている私たち一人一人は性格も賜物も考え方も違います。しかし、この主の祈りを一緒に祈り、父なる神を共に仰ぎ、その愛を受けて、互いに受け入れ、赦し、仕えあい、神を賛美するものに変えられていきます。そして遣わされていく日々の場にあって、神を知らず祈れない人に代わって、その人たちのためにも、たとえ口にださないとしても心の中で「我ら」と言って、この主の祈りを祈り、仕えていく者に変えられます。そして、祈れない時にはこの自分のためにも祈る教会の人々の祈りの声に支えられていくのです。

 

 12世紀から13世紀にかけて生きたアッシジのフランチェスコという修道士がいましたが、その幼馴染であり、最初の弟子となった人がいました。その人が、あのフランチェスコがどうしてこのように変わっていったのか、それはすばらしい祈りをささげていたからに違いないと思い、夜、どのように祈っているのか、その秘密を探ろうとしました。すると、フランチェスコは、ただ「おお、神よ。おお神よ」と短い言葉を祈り続けるだけだったのです。それが祈りの秘密だったのです。フランチェスコがこの時、何を思い、何を悩んでいたのかは分かりません。けれども、自分の弱さ、無力さを痛感するなかで、神が助けて、神が欠けを補ってくださり、自分にはなしえないことを神が行ってくださる、そのことを信じて祈り続けていったのです。

 

 祈れないときは、短い祈り、呼びかけの言葉だけでもよいのです。ローマの信徒への手紙8章26節と27節に祈る時に心に覚えておきたい大切なことが教えられています。26「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。27 人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです」。どう祈ったらよいのか分からない。けれども、その私たちの弱さを知り、ご自分のものとしてくださっている聖霊が私たちのために祈り、私たちを助け、私たちの祈りを神にとりなしてくださっています。聖霊を通してキリストが私たちのためにとりなし、私たちのために祈ってくださっています。だから、祈ることには慰めと希望があるのです。私たちの祈りがキリストの祈りに変えられている。「キリストのみ名」によって祈る時、それが私たちに起こっている奇跡なのです。キリストが私たちのために祈り、私たちの祈りをご自分の祈りとしてくださっているからこそ、慰めと希望があるのです。私たちと共に祈り、私たちと共に歩んで導いてくださる主ご自身に支えられるのです。

 

 この一年、私たちはイエス様と共に祈りの旅をつづけながら歩んでいきます。私たちを愛し、配慮し、導いてくださる父なる神がおられ、イエス・キリストが私たちと共にいて私たちに声を合わせ、私たちと共に祈り、道を備え、導いて、用いてくださいます。この一年、イエス様と神さまの御業が私たちに与えられていることを信じ、主の祈りを祈ることから、伝道と奉仕、主に仕えて進んでいく歩みをなしていきたいのです。

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