東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2018年1月28日礼拝説教要約

「祈りの道を共に歩む」ルカ11・1-4

 

 東京主僕教会ではこの1年、祈りをテーマとして学んでいきます。イエス様の歩みが祈りの旅路であるように、イエス様に招かれて従う私たちの歩みも祈りの旅路です。すべては祈りから始まります。

 でもどう祈ったらよいか分からない時もあります。

  特に教会に通い始めたばかりの時、何を祈ったらよいのか、他の人のように祈ることができないと不安になります。しかし、それは当然であり、初めは誰もが他の人々の祈りを聞き、聖書の祈りから学んできたのです。祈りは借り物でよい、考え出すより真似るもの、思いあぐねるより学ぶものなのです。

 イエス様の弟子たちがイエス様に「祈りを教えてください」とお願いした時、後に「主の祈り」と呼ばれる祈りが教えられました。けれども教会に初めてきた人が主の祈りを暗記できるまでには時間がかかります。信仰の長い人もふと忘れてしまう時があるのです。主の祈りは実は覚えにくい祈りなのです。古めかしい文体ということ以上に、その内容が自然の心の動きに逆らったものだからです。

 仮に主の祈りがこのような祈りだとしたら覚えやすいかもしれません。「そばにいてくださるわたしの神よ。わたしの名前を憶えてください。私の縄張りを大きくしてください。私の願いを実現してください。わたしに一生食べ物を与えてください。わたしに罪を犯す者を罰し、私の正しさを認めてください。わたしが誘惑にあって悪に溺れても、私のことは見逃してください。国と力と栄とは限りなくわたしのものであるように」。このような祈りこそ、本来の自分の中にある祈りの言葉であると言えるのです。

 けれども、主の祈りは違っています。自分ではなく、まず神さまのことを大きくしていきます。神さまをあがめ、神さまの御心がなるように祈り、神さまの御国が来るように祈ります。イエス様とともに、「天にまします我らの父よ」と呼びかける時、神の国、神のご支配に生きる者として、自己中心な思いから引き戻され、イエス様と共に神に感謝して祈り、神と人とに仕えていく者に変えられ、癒され、解放されていくのです。

 しかし、どうして、「父よ」といつも呼びかけることができるのでしょうか。その後の5節から13節の二つのたとえで教えられています。父なる神は私たちの願いや期待以上に私たちの求めを満たしてくださる神であり、どんな時も、私たちを愛し、配慮し、良いものを与えてくださる慈しみ深い神であり、何があっても、私たちはその子供とされているということです。神は私たちが祈ることを待ち望み、私たちの祈りを必ず聞いてくださる神であり、私たちの祈りに必ず答え、良い物を与えてくださる神です。この神の愛が私たちに注がれて、支えられ、導いてくださるからこそ、私たちはこの神の愛に感謝して、「天にまします我らの父よ」と自分を委ね、祈り始めることができるのです。

 たとえ、「ああ、神よ」としか祈ることができない時にも、イエス様が聖霊によって、私たちの祈りをご自分の祈りとして、私たちを助け、神さまに執り成してくださっています。この1年、この神さまの御業が私たちに与えられていることを信じ、祈ることから、主に仕えて進んでいく歩みをなしていきたいのです。