東京主僕教会の最近一か月の説教など

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2018年2月4日礼拝説教

「鷲のように翼を張って」イザヤ40・21-31 

 

 先ほど読んだイザヤ書40章の最後の31節の言葉は多くの人の愛唱聖句となってきた聖書の言葉です。「主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」。希望をもって力強く歩むイメージがあります。多くの人が心を惹きつけられてきました。けれども、どんな時も、何があっても、希望を持つということほど難しいことはありません。

 
 「希望」という時、第二次世界大戦の時のドイツの強制収容所を経験した精神科医であり、心理学者であったヴィクトール・フランクルが書いていたことを思い出します。生き延びる人・生きる人と死んでしまう人との間に違いをもたらしたのは肉体的な健康や強さの問題ではなく、それは希望があるかどうかだった、ということです。その希望とは自分を待つ家族のことであったり、無事に帰ったらあれをしたい、これをしたい、という願いだったのかもしれません。けれども、いずれにしても、自分たちが囲まれている有刺鉄線を超えたところにある希望、将来への希望なしには今を生きていくことはできない、ということを経験したのです。将来への希望がなければ、人生はむなしくなり、倒れ伏してしまうのが現実です。希望のなさ、可能性のなさに閉じ込められ、閉塞感に窒息し、人生の希望や目標がもちづらくなり、生きづらさを抱えてしまう。それはこの時代にも起こっていることなのです。


 今日のイザヤ書の聖書のみ言葉が最初に語られたのも希望が持てない時代であり、未来を信じることができない時代でした。旧約聖書イスラエルの人々の歴史の中で、大国バビロニアによってイスラエルが滅ぼされ、国の多くの人々が遠くバビロンに捕らわれの身となって移された時代でした。そして、それが50年以上にもわたって、「バビロン捕囚」といわれる時期が続いていきました。この時代は旧約聖書イスラエルの歴史の中で最も困難な時代であったと言われています。


 未来を信じることができない。希望をもって生きる、勇気をもって生きる、そんなことなど、とてもできない。そのような思いが込められているのが、27節に出てくる嘆きの言葉です。「…わたしの道は主に隠されている、と。…わたしの裁きは神に忘れられた、と」。希望のある未来がくるとは信じられなくなってしまった人々の呻き、嘆きの言葉です。「道」とか「裁き」と訳されている言葉は、人間の運命を指す言葉であり、そして、神さまによって定められた正しい方向のことを指している言葉です。当時のバビロンにいた人々はそのことが分からなくなってしまったのです。自分たちにはもう明日はないのだと嘆いていたのです。


 27節から31節を読むと、「倦む」とか「疲れる」という言葉が繰り返しでてきます。「倦む」。「疲れる」。これらの言葉は、当時のバビロンにいたイスラエルの人々の流行語だったのかもしれません。嫌になって、退屈してしまう。疲れてしまう。それが現実であり、預言者のイザヤもその人々の中にいて、その周りの倦み疲れた人々の心をよく知っていたのです。たとえ家を建てて住み、畑を耕して、家族もいる。けれども、「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れる」、これが当時の人々の現実でした。
そのような中で、人は何を思い、何を考えるのでしょうか。未来を失い、倦み疲れている時に、人は何を思い、何を考えるのでしょうか。それは、今日のみ言葉によれば、自分たちの神もまた倦み疲れているのではないか、ということです。これまで、モーセ以来、神によって導かれてきたが、その力強い神は今どこにいってしまったのか。神もまた倦み疲れ、もう生きて働いてくださらないのではないか。そのように、その底知れぬ虚無感の中で人々は嘆いていたのです。


 しかし、その時にイザヤは神の言葉を取り次いで語りました。決して、断じて、そうではない、と。「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主はとこしえにいます神。地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦みことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい」。イザヤは、神は天地の造り主であり、その創造の力は今もなお生きて働いている、と伝えています。天地を造られた神は、今もすべての人に働いているのです。


 そして、今、注目したいのは、その神の力が29「疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる」ということです。天地を造られた神の創造の力が、「疲れた者」「勢いを失っている者」、言い換えれば、小さいもの、弱さを抱え、弱さの中にある者に大きな力を与え、今も生きて働いている、ということです。この聖書の箇所は、神はどんなに偉大な神であり、すばらしい神であるのかを指し示しているだけではありません。それだけではなく、その神さまが、どんなに疲れた者、勢いを失っている者、小さい者、弱い者を愛し、かけがえのない大事な貴重な存在としてくださっているのかを告げています。それがここで皆さんと共に覚えたいメッセージなのです。神は疲れた者、勢いを失っている者、弱い者、小さい者を決して見捨てているのではない。神が弱さのなかにあるものを特に愛し、共におられ、かけがえのない大事な存在としてくださっているからこそ、神さまは弱さの中にある者を受け入れ、弱さをとおして働いてくださるのです。


 新約聖書のコリントの信徒への手紙二の12章9節には「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」というみ言葉があります。この言葉も愛唱聖句としている方々も多いと思います。この言葉を語ったパウロはどうしても取り除いてほしい肉体のとげを抱えていました。それが一体何だったのかはよく分かりません。けれども、その弱さの中で、神さまは、恵みを与え、働いてくださる。天地を創造した神さまは、今、弱さを抱える私たちを愛し、受け入れ、用いて、生きて働いてくださっています。私たちの弱さをご自分のものとして取り上げ、ご自分に引き受け、負ってくださった神の御子イエス・キリストが私たちと共にいてくださり、弱さの中にある私たちを支え、助け、用いて、導いてくださいます。弱さの中にありながら、その私に恵みを与え、助け、用いて、強めてくださる。だから「わたしは弱いときにこそ強いからです」とパウロはいうことができるのです。今も弱さを抱えて、疲れ果てしまう私たち。しかし、けれども、その私たちにどんな時にも働き続ける神の力があり、神の愛があります。この神の力、神の愛があるからこそ、私たちには必ず神による確かな未来があり、希望があるのだ、と聖書は告げているのです。


 聖書の学びの会で読んでいるヘブライ人への手紙3章6節に今日の聖書のメッセージとかさなる言葉があります。「キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです」。キリストの支配の中にあり、キリストによる神の恵みが与えられている。私たちには、その神の恵みに基づいた確信と希望に満ちた誇りがあるのだ、と言っています。ヘブライ人への手紙の注解書を書いた現在のアメリカのトーマス・ロングという説教者は、この確信と希望に満ちた誇りが表明される時を次のように説明しています。

 

 洗礼の時、「あなたは洗礼によって聖霊で証印を押され、永遠にキリストご自身のものとして刻印を押された」と語る時。病気の苦痛にあえぐ人々の枕元に座り、詩編の「主はわたしの光、わたしの救い、わたしは誰を恐れよう」と静かに読む時。墓地に立ち、大胆に「あなたがたは心を騒がせるな。おびえるな。父の家には住む所がたくさんある」と口にする時。環境破壊にたずさわることについて「地球はあなたがたのものではなく、主のものだ」と大胆に語る時。人間同士の壁を築こうとする人々に向かって「神は偏り見ない方だということをあなたがたは知らないのか」と語る時。危機に際しても堅くたって、キング牧師のように「今、私には思い悩むことは何もない。私は山の頂に立った。私の目は主の来臨の栄光を見た」と公言する時。ここで引用されている言葉はすべて聖書の言葉から生まれています。


 これらの言葉はこの世界の普通の視点からするならば、常識ではよくわからない、異質な言葉です。けれども、不思議なことに、今を生きる私たちに確かな確信と希望に満ちた誇りを満たすのです。これほど今を生きる私たちにとって励ましと希望となる言葉はないのです。これらの引用された言葉は、私たちに対する神の愛の確かさへの確信からうまれています。私たちがこの一年、聖書から聞いていく神の言葉、弱さの中にある私たちに告げられている聖書の言葉には、今を生かし、希望を与える神の愛と恵みの言葉が満ち溢れているのです。


 倦み疲れていても、弱さの中にあっても、その私たちに働いている神の愛の力があります。この神の愛を信じる時、「主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」、新しい力を与えられ、神と共に歩んでいく幸いを与えられているのです。