東京主僕教会の最近一か月の説教など

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2018年2月11日礼拝説教

「大切なことは目に見えない」マルコ2・1-12 

 

 「大切なものはね、目には見えないんだよ。目では見えない、だから心で探さないと」。サン= テグジュペリの「星の王子さま」の中の言葉です。この本は子供だけでなく、大人にも名作として読み継がれてきました。「大切なものは目に見えない」。多くの人が子供の時、そのように言われてきたと思います。

 

 しかし、成長し、学校が始まり、受験をし、仕事をしていくうちに、人からは目に見える実績と数字を求められ、自分自身も目に見える評価を求めるようになってしまっていることに気づくことがあります。目に見えるもの、見た目や服装、学歴や経歴とか数字、目にみえるものを確かなものとして人を見て判断してしまう時があります。けれども、この本は、大事なことはそういったことではなく、世の中には、この人生には目に見えない大切なものがあることを教えています。目には見えない大切なものとは何か。「愛」とか「思いやり」、「やさしさ」とかいったものをあげることができるかもしれません。聖書も目には見えない大切なものがあることを告げています。その大切なものに出会い、その大切なものとの絆を結んでいくことによって、世界の見え方、自分の見え方が変わります。人生を支えられ、希望をもって歩むことができるのです。

 

 「大切なものは目に見えない」。そのことは、今日の聖書のみ言葉によれば、まず中風の人を連れてきた四人の人々の心とみることができるかもしれません。しかし、今日の箇所には、人の家の屋根を破壊して、病人をつり降ろした、という極めて激しい話が書かれています。ことの次第は1節から4節でこのように伝えられています。「数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした」。

 

 マルコによる福音書をみると、この直前にも、カファルナウムの家に、大勢の人々が集まったという話が出ています。1章29節のシモン・ペテロとアンデレの家(1:29)での話です。そこでイエス様がいろいろな病気にかかっている大勢の人をいやしたことが書かれています。恐らく、今日のこの話も、このペテロの家で起こった話と考えられています。イエス様はペテロの家の戸口に立って、中にいる人々にも、外に集まってくる人々にも聞こえるように大きな声で神さまのお話をされていたのです。

 

 ペテロの家は漁師の家ですが、当時の一般の家の屋根は板を渡した平らな屋根でした。そして乾期になると、屋内に外気を通し、人はその上で寝ることもできました。しかし、雨期になると、人々は板の隙間を藁や漆喰で埋めて、雨をしのいでいたのです。だから、家の屋根には家のどちらかに昇っていく階段があり、すぐに屋根をはがすこともできました。けれども、どう考えても、この屋根に穴を開けた四人の行動は普通の振る舞いとはいえません。常軌を逸しています。

 

 この四人は連れてきた病人の人の家族や親戚、友人だったかもしれませんが、連れてこられた人は「中風の人」としか記されていません。今でいえば、脳梗塞脳卒中脳出血などの後遺症によって、身体にしびれや麻痺がある状態を言います。昔は原因も分からず病名もなかったので、身体が麻痺状態になったのを全部まとめて中風と言っていたのです。この人を見て、周りの友人たちは、イエス様に何とか出会わせたい、そしたらそこで何か起こるかもしれないと期待して、その時は今ここでしかない、そう思って、屋根を破壊する行為に出たのです。しかし、家の持ち主のペテロにしてみれば、ただ事ではありません。真っ青になったはずです。生涯忘れることのできない強烈な記憶になったはずです。マルコによる福音書はペテロの説教をもとにして書かれたという伝承もあります。だとするなら、自分の家の屋根が破壊される事件があったのだと説教で語ったのが残ったのだとしても不思議ではありません。

 

 でも、マルコによる福音書がこの出来事を通して大事なこととして伝えたいと思っているのはこの時にイエス様が語られた言葉です。5節に「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた」とあります。明らかに、信仰とは何かを教えるための一つの例として、この出来事が伝えられています。もちろん、この出来事で信仰のすべてが表現されているわけではありません。しかし、ここに「信仰」の本質が確かに示されています。「イエス様のもとに行きたい。イエス様のもとに連れて行きたい。たとえ屋根を壊してでも行きたい。」。信仰とはそういうものであると教えているのです。

 

 けれども、不思議なのは、病気になって苦しんでいるのに、どうして、イエス様は「あなたの病気は癒される」と言わないのでしょうか。当時、原因のわからない病気はすべて罪が原因であると思われました。本人や親が何か悪いことをしたから罰を受けて、病気になったとみなされて、人々から遠ざけられ、差別されたのです。これまで、この人がどんなに白い目でみられて、苦しんできたことのか、その苦しみは、はかり知ることはできません。でも、イエス様はその全てを承知の上で、ただ「病気が癒された」と言われたのではなく、「あなたの罪が赦される」と言われたのです。単にこれから赦すであろうということではなく、あなたの罪を赦したのだ、と言われているのです。

 

 人は病気であれば癒しを求めます。欠乏があれば、満たしを求めます。苦しみがあれば、解放を求めます。これらはすべて、この世に生きていく限り、必要なことです。しかし、この世において必要とされている全てが、最後には必要でなくなる時がやってきます。人生の終わりの時、この世界の終末、終わりの時。全てが必要なくなります。しかし、その時、問われるのは、神さまとの間が平和であるかどうかであり、神さまとの間に和解があるかどうかです。

 

 イエス様が聖書で行われている癒し、奇跡は救いそのものではありません。救いの印です。イエス様が与えてくださる救い、それが神様との平和であり、神さまとの和解です。そのために、その和解を妨げ、神さまから遠ざけていく罪を取り除かなければなりません。だから、たとえどんなに人から批判されても、罪の赦しを与え、神と和解させ、神との平和を与えてくださるのです。イエス様はこの後、十字架で、全ての人の罪を引き受けて死なれ、復活し、神の子としての命を与えて下さいます。今朝、私たちと共にいてくださるイエス様は、私たちの罪を神の権威をもって赦し、受け入れ、愛する神さまの子供としてくださっているのです。

 

 このことはどんなに中風であった人にとって喜びとなったことでしょう。自分は神によって裁かれているのではない。神によって罰せられているのではない。神によって呪われているのではない。神さまに愛され、赦され、受け入れられ、神さまの愛する子供とされている。神さまに祝福されている。「床を担いで家に帰りなさい」。この言葉は神さまが私たちをこれからも必要として用いてくださり、導いてくださることも示しています。目に見えない大切なもの。それは、イエス様の愛と赦しであり、そのイエス様が共にいてくださることです。

 

 私たちの人生には悩みがあり、痛みがあり、癒されぬ病もあるかもしれません。けれども、何があっても、神の赦し、神の愛の中にあり、神の祝福の中に置かれています。決して神に裁かれているのでもなく、罰せられているのでもなく、呪われているのでもありません。私たちは神の愛の中にあり、神の祝福の中にあるからこそ、悩みがあり、気になることがあっても、神さまに委ね、安心して、神さまの祝福の中で憩い、休むことができるのです。目には見えない大切なもの。それは、人生においてイエス様と出会っていくことです。このイエス様が私たちを愛し、赦し、担い、捕らえてくださっています。このイエス様に出会い、このイエス様の絆によってつながれていることで、それが慰めとなり、希望となり、私たちを生かしていくのです。

 

 考えてみると、中風の人は、四人の祈りによって、四人のとりなしの祈りによってイエス様に導かれました。私たちにもこの「四人」の存在と言える祈り手がいるのです。今礼拝に来て聖書のみ言葉を通してイエス様に出会っているのも「四人」といえる存在、それ以上の人のとりなしの祈りがあり、そして、その背後に、イエス様の私たちを神に導くとりなしの祈りがあるからです。私たちは、この祈りに支えられ、主と出会い、救いを与えられています。

 

 私が最近、心に印象的に残っている言葉があります。「神は細部に宿る」という言葉です。本来、宗教的な言葉ではありません。ある建築家であり芸術家が言った言葉です。「素晴らしい芸術作品や良い仕事は細かいところをきちんと仕上げており、こだわったディテールこそが作品の本質を決定する。何ごとも細部まで心を込めて行わなければならない」という言葉です。芸術家は、一見目立たないところ、細かいところ、小さなところであっても、そのことを大事にして生かしていくのです。それは神さまも同じように思えるのです。神さまは細かいところ、小さいところを大事にし、それを生かし、用いて、作品を仕上げる神であると言うことができます。本当に小さな私たちを愛し、赦し、受け入れてくださる神であり、私たちにはたとえ小さなこと、小さな祈りと思えるものであっても、その小さなものを用いて、ご自分を表して、恵みを与えてくださる神なのです。イエス・キリストは私たちの祈りを用いて、ご自分をあらわしてくださる神であり、その意味で「神は細部に宿る」神であるということができるのです。

 

 私たちは、主によって集められた神の家族としての教会であり、このイエス様との絆の中で生かされ、互いにとりなし、この世界の人々のために祈る神の民とされています。私たちもこの朝、目には見えませんが、確かに、私たちに出会い、私たちを愛し、赦してくださっているイエス様を信じて、家族や友人、心に覚える人々のために、教会になかなか来れない人々や周りの人々が主に導かれるように祈りつつ、この一週間、愛する神の子とされていることに希望をもって歩んでいきたいのです。

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