東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2018年2月18日礼拝説教

「ナルドの香油」 マルコ14・3-9      

 

 この1週間、韓国の平昌(ピョンチャン)での冬季オリンピックに注目された方も多かったと思います。フィギュアスケート羽生結弦(はにゅうゆづる)選手が前回に続いて金メダルをとったニュースがありました。

 

 この選手について少し調べると、その著書に、小さい頃から憧れだった選手と会うたびに、「今、君が出来ること、持っている能力を全部出して見せなさい」と言われたと言う話があるようです。この助言のとおり、健康状態や調整がベストでなかったとしても、持てるもの全てを出し尽くして演技してきたことが分かります。私たちもこれまでの歩みの中で、自分の持てるものを全て出し切ったといえる経験があると思います。人から見て、欠けがあり不十分なものであったとしても、「良かった」と思えた経験があると思います。そして、自分の持てるものをすべてだしきっていくことのできる対象がある、そのことは何と素晴らしいことかと思えます。

 

 今日のマルコによる福音書14章3節にも自分の持てる全てを出し尽くした女性がいます。「イエスがベタニヤで、重い皮膚病の人シモンの家にいて、食卓についておられたとき、ひとりの女が、非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、香油をイエスの頭に注ぎかけた」。ナルドの香油はインドのヒマラヤ地方でとれたナルドという香料であったようですが、どれ程高価なものだったのかが5「三百デナリオン以上」という言葉に示されています。当時1デナリオンは1日分の労働者の賃金でした。ですから約一年分の給料にあたります。計算すると7500人分の食事を準備できた額であったという説明もあります。けれども、この高価な香油を、この女性は、しぶしぶこの香油の一滴、数滴をたらすのではなく、喜んでそのすべてを惜しみなくイエス様の頭に注いだのです。それは人の目からすれば、確かに無駄遣いと言える行動だったのです。

 

 しかし、なぜこのように全てを注いだのでしょうか。当然、4節「それを売って、貧しい人々に施すことができたのに」と厳しく咎める声もでてきます。イエス様は「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。私に良いことをしてくれたのだ」と言われました。でも、決して貧しい人々に施すことを軽んじているわけではありません。「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる」。貧しい人々、苦しんでいる人を助けることは、むしろイエス様の大事な教えの一つです。けれども、この言葉の後、「しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできる限りのことをした。つまり、前もって、わたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」と言われています。イエス様はこの後を読んでいくと、裏切られ、逮捕され、十字架にかけられて死なれます。イエス様はそのことをわかっていました。けれども、この箇所を読む限り、この女性がそのことを知っていたとは言えないのです。イエス様が捕らえられ殺されてしまう、だからその体に香油を注いで埋葬の準備をしようと思っていた、とは言えません。ただ言えることは、この女性はこの後の裏切るユダとは違って、一心にイエス様を信じていたことです。そしてこれ以前にイエス様にただ一心に感謝したい、それをできる限りの仕方で形にしたいと考えて、今それを行動に移したことです。そして、イエス様はその女性の行動をご自分の十字架の死による埋葬の準備として受け止め、この行動を受け入れられたのです。

 

 イエス様の「わたしに良いことをしてくれた」という言葉があります。この「良い」という言葉はもともとの原語では「美しい」という意味をもっています。単に良いことではなく、美しいことをしてくれたと言って、慰められ、本当に喜ばれているのです。今日から受難節の日曜日が始まりました。受難節はイエス様のわたしたちの救いのためのご受難の歩みを辿っていく時ですが、今年はこの受難節の礼拝で、マルコによる福音書14章のこのナルドの香油の出来事から15章のイエス様の十字架の死の出来事まで、ご受難の歩みを少しずつ辿っていきます。イエス様の私たちのためのご受難の歩みこそ、まさにわたしたちのために全てを出し尽くし、ささげてくださった歩みでした。この女性の行動がこれからのイエス様の歩みに重なってくる、ということは、イエス様のご受難の歩みも美しいと言えるのです。むしろ、イエス様の歩みにこそ、神の美、美しさが表れているのです。

 

 聖書の美は、ギリシャの美的感覚、普通の美的感覚からするなら、broken beauty、「破れ果てた美」、「破たんした美」と言われます。聖書が語る「美しさ」はギリシャ彫刻の調和ある美や仏教の説く静かな美ではありません。あるいは抱えているどうしようもない苦しみや矛盾を努力して克服して乗り越えたところに「美」があるというのでもありません。イエス様は神さまの御心に従って、ご自分を犠牲にして、苦しみを受け、十字架で死なれる道を進んでいかれました。ただ私たちのことだけを考え、ただ私たちのために肉体を取って人となり、私たちの罪の贖いとして、ご自分の全てを犠牲として献げて死なれたのです。この出来事は普通に考えれば、命の浪費、無駄遣いです。けれども、私たちはこの神の聖なる浪費によって、罪を贖われ、赦されて、神の子としての命を与えられ、イエス様のもっている全てを与えられています。信仰者である、キリスト者である、ということは、誰が見てもそれは浪費だ、常識を超えている、無駄だと思える仕方で、自分が救われていることを知っていることです。調和のない、破れ果てた世界、破綻した世界にあって、自分自身さえ崩壊してしまわざるをえない現実、この世界にあって、神の愛の浪費があるからこそ、私たちは支えられ、生かされ、希望を持つことができるのです。

 

 私たちは誰一人例外なく、私たちもナルドの香油、神と人のために用いる高価な賜物、イエス様が受け入れて下さる賜物を与えられています。イエス様による神の愛の浪費に答え、自分の大事なナルドの香油、自分自身を神のために少しでもささげて用いて生きていく時、それを恵みの福音の記念として用いてくださいます。それは献げるもの、他人が人の奉仕を非難するような、奉仕の量や質や価値によるのではなく、感謝をもって主のために良いことをしようという思いをもっていく時、主がそれを受け入れ、恵みの現れるものとしてくださいます。どんなに欠けがあり、不十分なものであると思えても、それを主は受け入れ、用いてくださいます。それが私たちの喜びではないでしょうか。ここに福音があり、聖書の美しい生き方があるのです。

 

 この神の「聖なる浪費」に答えていく、私たちの「聖なる浪費」こそ、私たちの人生に創造的な歩みをもたらします。この神の聖なる浪費によって、罪と死の力が打ち破られ、この世界を新しく造りかえる神の創造的な御業が始まりました。私たちの人生も聖なる浪費のないところで創造的な歩みは生まれません。私たちにとっての聖なる浪費は礼拝から始まります。イエス様の恵みに感謝して、自分をイエス様に差し出し、神を賛美していく時、私たちを用いて神さまが働く新しい創造的なことが起こっていきます。様々な仕方で神さまに与えられている賜物をもって自分をささげ、神さまが用いてくださる歩みが生まれていきます。

 

 この女性はヨハネによる福音書によればラザロの姉弟のマリアです。しかし、マルコによる福音書では一人の女性としか書かれていません。それはマルコによる福音書は、これを読む私たち一人一人がこの名もなき女性、匿名の人であることを示しているからではないでしょうか。この受難節、イエス様のご受難と十字架の歩み、わたしたちの救いのための聖なる浪費に心を向けていきたいと思います。そして一人一人与えられている自分のナルドの香油、賜物をもって、神さまと人々に愛をもって仕えていくことができるように祈りたいと思います。