東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2018年2月25日礼拝説教

「神のゆるしの愛」マルコ14・12-26     

 

 「相田みつを」という方の『生きていてよかった』という詩集がありますが、2003年に出版されてから、今もなお多くの人に読まれているようです。誰にでもある人間的な弱さを否定せず受け入れながら、励ますために書かれているようです。

 この本が読まれてきたのは「生まれてきてよかった」、「生きていてよかった」、「人生は祝福されている」と言える人生を送りたい、このように誰しもが願っているからではないかと思えます。

 

 けれども、今日のマルコによる福音書には「生きていてよかった」とは言えない、人生が呪われている、生まれてこなかったほうがよかった、という言葉がでてきて、戸惑いを覚えます。「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方がその者のためによかった」。それもイエス様の言葉なのです。「不幸だ」。この言葉はもともとのギリシャ語では「災いだ」、「呪われている」と訳される言葉なのです。

 

 この言葉が告げられたのは、これまでイエス様に従ってきた12弟子の一人のユダでした。ユダはイエス様を裏切って、この後、イエス様を逮捕し、殺してしまおうとしていた人々に売り渡してしまいます。なぜ、イエス様にとって特別な存在ともいえるユダが裏切ったのか、その理由は書かれていません。マタイによる福音書には銀貨30枚で引き渡すことを約束したとありますが、現在のお金に換算すれば30万、これまでも貧しい弟子としての生活をしてきたユダもそのために売り渡した、とは思えません。もっと深い動機があるように思えます。もし直前の出来事が直接の動機であるなら、このように考えることができるのです。ユダは、イエス様がもし、女性が持ってきたとても高価なナルドの香油を、貧しいたくさんの人々に施せば、きっと多くの人々がイエス様についてくるし、イエス様が王となって新しい国が来る、その日も近いと期待していた。でも、イエス様がそうしなかったことに失望し、落胆し、イエス様を裏切るに至ったのです。あくまでも推測ですが、どうしてイエス様を裏切ったのかは定かではありません。

 

 他の福音書では「サタンがユダに入った」とあるように、ユダは何か魔が差したように裏切ってしまったのでしょうか。そうであっても、イエスさまは、神さまは、そのユダの人生を不幸であるだ、呪われている、と言われたのでしょうか。私たちにも大変な人生だと思える時、自分は不幸だ、呪われている、自分など生まれてこなかったほうがよかった、と感じることもあると思います。でも、そのように思う人にとって、救いはないのでしょうか。そのように感じることもある私たちにとって希望はないのでしょうか。

 

 しかし、イエス様は決してユダの人生を呪われたのではありません。「不幸だ」と言われた時、その言葉は、ユダに対する、悲痛な張り裂けるようなご自身の胸の痛みの表明であり、激しい同情に基づくうめき声だったのです。過越祭、除酵祭という言葉が出て来ますが、昔イスラエルの人々がエジプトから解放されたことを記念して、子羊を屠って焼いて食べてお祝いするのが過越祭でした。その時に種を入れないパンも一緒に食べてお祝いするのが除酵祭です。今でも3月末から4月にかけてエルサレムで行われます。その祭りをイエス様も弟子たちも祝ったのです。その時、イエス様は、ユダがご自分を裏切って、それでご自分が死に至ることを承知の上で、食事の準備についての指図をし、22節からの過越の食事、最後の晩餐、主の晩餐の時、このユダを排除し、遠ざけることなく、むしろ反対に、一緒に招いて、食事をされたのです。このことは決してイエス様がユダを怒り、ユダを呪っているのでないことを示してします。反対に、他の福音書には、弟子たちを「この上なく愛し抜かれ」(ヨハネ13)、極みまで愛し抜かれて、ユダをもどこまでも愛し、赦してくださっていることを示しています。

 

 今日のマルコによる福音書で、過越の準備の時も、食事の時も、イエス様はご自分を裏切ろうとしている人が一体誰なのか、そのことを弟子たちに明らかにしていません。弟子たちはイエス様に招かれて従ってきました。しかし、イエス様の教えを理解できず、失敗を繰り返していきます。そのどん底がイエス様への裏切りでした。弟子たちは19節「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めています。その言葉の示している通り、イエス様を裏切り、神を裏切り見捨てていくこと、その可能性はすべての弟子にあったのです。それが目に見える形で起こったのがユダでした。ユダは弟子たち一人一人の隠れた姿です。そして、しばしば神さまから離れ、神を否定し、裏切ってしまう罪を抱えている私たちの姿なのです。

 

 このように見てくると、22節からの主の晩餐の出来事は、イエス様はご自分を裏切る者、ご自分を見捨てていく者、私たち罪びとのために、まさにこの食事を用意されたことは明らかです。過越の祭りでは、子羊を焼いて食べることが習わしでした。しかし、その子羊が準備されたことは書かれていません。イエスご自身が屠られる子羊として、罪びとを救うために神に差し出される犠牲としてご自分を理解しておられたからです。

 

 イエス様は「パンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与え」られました。パンを裂き、これからご自分の体が十字架で裂かれることを示して、感謝して、賛美されたのです。しかし、なぜ自分が無残な仕方で死ぬのに、神さまに感謝して、賛美できるのでしょうか。普通なら、嘆いたり、呪ったとしても不思議ではないのです。けれども、感謝して、賛美されたのは、私たち人間の裏切り、罪を引き受けて、それを担い、神さまの御心に従って、ご自分の犠牲の死、十字架の死を果たすことによって、私たちに対する罪ゆえの死、呪いを祝福へ、命へ、救いへと変えて下さるからです。

 

 私たちは聖餐式で、キリストが自分の血となり、肉となる、と思うこともありますが、けれども大事なことは、パンを取り、食べることによって、聖霊の働きの中で、反対に、キリストの体の一部とされ、キリストの体と一つとされて、キリストの体の中で生き始めるということです。そして、聖書では血は命を表していますが、杯に示されるキリストの血に与かることによって、聖霊の働きの中で、キリストの命をいただいて、罪を赦され、神共にある命に生きる者となり、新しい神との交わりを与えられた者、神の契約の民、祝福された神の民として養われていくのです。そして「神の国で新たに飲むその日までは」とあるように、将来必ず実現する神の国の大きな祝宴に招かれている希望を与えられていくのです。

 

 コリントの信徒への手紙二5章21節(331p)にはイエス・キリストのご受難と十字架の意味がはっきりと記されています。「罪と何のかかわりのない方を、神は私たちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって、神の義を得ることができたのです」。イエスご自身が私たちのために罪となり、私たちがイエス様によって神の義とされる。このことは、昔から「聖なる交換」、「素晴らしい交換」と呼ばれてきたことですが、このことが起こるのが聖餐の時です。永遠にキリストが私たちの命、私たちの罪とその死をご自分のものとしてくださり、永遠に私たちに罪の赦しとご自分の命、永遠の命を与えて下さる。私たちの弱さ、貧しさをご自分に取られることによって、私たちにご自分の強さ、豊かな富を与えてくださる。私たちの不義の重荷をご自身に受け入れることによって、御自身の義を私たちに着せてくださる。これが聖餐式の福音、むしろキリスト教の最大の福音なのです。それが私たちに与えられている救いであり、祝福なのです。聖餐は私たちにご自分を与えてささげてくださっているキリスト、この神の祝福を受けて、私たちもキリストに自分を与え、ささげて、賛美していく時なのです。

 

 自分には何もない、自分は生まれてこなかったほうがよかった、と思える者に、今イエス様はご自分の全てを注ぎだし、ご自分を与えて、「わが恵み、汝に足れり」と、私たちを愛し、祝福し、生きて働いてくださいます。そして、終わりの時の神の国における食卓、祝宴に与かる希望、未来を切り開いてくださっています。その時に至るまで、イエス様は私たちにご自分を与え、私たちと共にいて、私たちを養い、支えて、導いて下さいます。神の愛と命を分かち合い、神の愛を表し、伝えていく者として、用いて、働いてくださいます。

 

 人生の途中で体のハンデを負った星野富弘さんの詩で、わたしの好きな言葉があります。「いのちが一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった。いのちよりも大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった」。人生に希望を失った時、聖書を読み、イエス様に出会って、「生きているのが嬉しかった」と言えたのです。私たちのためにご受難と十字架の道を歩まれたイエス様によって与えられている恵みは、どんな時も、何が起こっても、生きていてよかった、生まれてきてよかったと言える福音なのです。

 

 この後、イエス様を三度否定したペテロは復活したイエス様に出会い、イエス様の犠牲によって示された神さまの愛と赦しを信じ、立ち直っていきました。けれども、ユダはそうではありませんでした。今日の聖書の箇所の晩餐の時に、イエス様は「取りなさい」と言われます。これは「できれば取ってくださいね」という呼びかけの言葉では決してありません。はっきりとした強い命令の言葉です。それほど強く言われるのは、このパンを取って食べ、この杯を取って飲まなければ、イエス様の愛、イエス様の命を糧として、支えられ、生かされていかなければ、私たちの信仰の旅路、私たちの人生の旅路を乗り切っていくことはできないからです。

 

 この受難節、私たちはイエス様のご受難と十字架の死によって、「生きていてよかった」、「生まれてきてよかった」と言える恵みを与えられていることに心を向けて、信じていきたいと思います。そして、この恵みを味わうことを祈りつつ、神さまの愛と恵みを表して歩んでいきたいのです。