東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2018年3月4日礼拝説教

ゲッセマネの祈り」マルコ14・32-42    

 

 「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。この祈りの言葉を読む時、疑問を覚えざるを得ません。自分の気持ちを正直に率直に祈り、願い求めてはいけないのか。自分の気持ちに蓋をせず、自分の気持ちに正直に生きて、誰にどう思われるのか、自分のことをどう思われるかなどに囚われず、自分の気持に正直になって日々を楽しんで生きる(ターシャ・テューダーのように)。それはいけないことなのでしょうか。自分の気持ちを素直に打ち明け、自分の気持ちに正直に生きる。そのことは時に人を自由にしていく大切なことに思えるのです。

 
 しかし、自分の正直な思いを打ち明けて自分の気持ちに正直に生きる、イエス様はそのことを否定されてはおられません。旧約聖書詩編の中に、神さまに嘆く詩編の言葉が数多くあるように、その旧約聖書の伝統の中で生きてこられたイエス様も、自分の正直な気持ちを神さまに打ち明けて祈ることを大事にされています。この時、イエス様は最初に、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取り除けてください」と祈っておられるからです。できるなら、この杯、この苦しみを私から取り除いてほしい、イエス様はそのように正直な気持ちを打ち明けて願っておられるからです。


 しかし、その上で、神さまの御心が、神さまの思い、ご計画が実現するように、と祈っておられるのです。小さな子供は予防注射を嫌がります。注射は痛くてつらい、嫌だからです。でも、それでも、我慢して、注射を受けるのは、悪い病気にならないためです。私たちには、人にはつらくても、しなくてはならないことがあります。イエス様はこの時、私たちのためにとてもつらいことを引き受けることを決断してくださったのです。その決断の時が今日のゲッセマネの祈りでした。


 イエス様が祈られたのは「ゲッセマネ」という場所でした。エルサレムの町で弟子たちと食事をされた後、イエス様は町を抜け、オリーブ山にある「ゲッセマネ」と呼ばれる場所に来られました。このオリーブ山にオリーブの木が何本も植えられている静かな園でした。ゲッセマネはイエス様にとっていつも行く、いつもの祈りの場所でした。イエス様はそこで弟子たちに、向こうで祈ってくるから、ここに座っていなさいと言われ、ペトロとヤコブヨハネの三人だけを連れて、奥に入り、少し離れて、祈り始められました。「ゲッセマネ」とは「油絞り」という意味の言葉をもっています。オリーブから油を搾るように、今、イエス様の心が絞られて、でてくる思い、本心、その思いが神さまに打ち明けられ、祈られたのです。そして、「ひどく恐れ、もだえ始め」、「わたしは死ぬばかりに悲しい」、悲しくて死んでしまいそうだと言って、地面にひれ伏し、「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」と祈られたのです。この苦しみという「杯を私から取り除けてください」と願って、祈られたのです。


 今日の箇所の後を読んでいくと、イエス様は逮捕され、裁判にかけられ、不当な判決をくだされ、十字架の刑を受けていかれます。イエス様が祈りの中で「この苦しみの時」、「この杯」と言われているのは、この十字架の出来事です。けれども、イエス様がこの時、ひどく恐れ、最も恐れていたもの、それは、人々に裏切られ、罵られ、体を痛めつけられ、最後には死んでしまうことではありません。それは想像もつかない大変なことですが、そのことではありません。イエス様が最も恐れていたのは、この世界の全ての人々の罪、全ての時代の全ての人々の罪を負って、その罪のために神さまに裁かれる、ということでした。父なる神さまの子どもとして、神さまとの愛に満ちた関係のこれまであったのです。しかし、その自分が罪ある者として裁かれ、父なる神との愛の関係を引き裂かれ、関係を絶たれて、捨てられてしまうのです。そのことを最も恐れたのです。

 

 罪のないイエス様が、すべての人の罪を背負って、その代わりに十字架にかかられ、裁かれることによって、全ての人々に救いの道を開いていくこと。それが神の御心であり、神さまのご計画であり、最も恐れたことでした。イエス様がここで問題にされているのは、神さまにできないこと、神さまに何ができるのかということではありません。神さまが何を考えておられるのか、その神さまのみ心、神さまの思いであり、神さまのご計画だったのです。


 この箇所には、何度も「目を覚まして」一緒に「祈っていなさい」と言われながら、眠ってしまう弟子たちの姿があります。しかし、このように眠り込み、その果てに裏切ってしまう弟子たちをイエス様は見捨てません。この救いのため、その弟子たちに代表される全世界の人の救いのため、そして私たち一人一人の救いのため。そのための救いのご計画を成し遂げるために、イエス様は苦しみながら、「しかし、わたしの願うことではなく、御心に適うことが行われますように」、神さまの救いのご計画に従えるように祈り、このご計画を受け入れていかれたのです。イエス様が私たち一人一人を愛しておられるからこそ、ご自分から進んで、十字架への道を歩んでいかれ、救いの道を拓いてくださいました。私の願うこと、私の思い、人間の思いに、「神の願い」、神の思い、神の私たちを愛し、救う思いが勝利された場所、それがゲッセマネであり、十字架だったのです。


 私たちの人生には、神さまに見捨てられている、神さまに愛されていないと思える時があるかもしれません。誰からも、自分は愛されていない、大切にされていない、必要とされていない。そのように思える時があるかもしれません。けれども、私たち一人一人を、神さまは今も見捨てていない、今も私たちを愛してくださっている。そのことははっきりとしていて、変わることのない事実です。それがこの祈りの中に、はっきり示されています。神さまのご計画を受け入れることを決断し、十字架の道を歩んで下さったこと、そこに、私たちは決して、神さまに見捨てられているのではない、神さまに愛されている一人一人であることが示されているのです。イエス様を通して私たちを愛し、私たちに最善を与える神さまのみ心がいつもあるのです。イエス様のご受難と十字架によって、私たちに罪の赦しを与えられ、受け入れられ、神さまと共に生きる永遠の命を与えられています。一人一人が、神さまの救いのご計画の器として、その人の仕方で、私たちを用いて下さいます。この朝、覚えていただきたいことは、お一人お一人に、どんな時も、私たちを愛し、最善を与えてくださる神さまの大きな御心がある、ということです。「目を覚ましていなさい」とは、このイエス様との交わり、イエス様の愛にとどまることです。このイエス様にしがみつき、すがっていくことなのです。


 今日のイエス様の祈りから、自分の思いよりももっと大きな神さまの思い、神さまの御心があることを教えられます。私たちの思い描く計画よりも、もっと大きな神さまのご計画があります。私たちを愛し、最善を与えてくださる神さまの大きな御心、神さまの大きなご計画があります。「御心に適うことが行われますように」、主の祈りの「御心をなさせたまえ」と祈ることは、この私たちの思い、私たちの人生よりも、もっと大きな神さまの思い、ご計画にとらえられていくことを求める祈りです。自分の人生を神がこの世界において今もなしておられる冒険に今ここでとらえていただく祈りなのです(『主の祈り-今を生きるあなたに』S・ハワーワス/W・H・ウイルモン著)。


 「恐れることはありません。あなたがたは悪をたくらみましたが、神はそれを善に変えてくださったのです」。創世記で兄達に裏切られ、エジプトに売られたヨセフが後に兄たちに送った言葉です。このヨセフにイエス様の姿が重なってきます。全ての人間がたくらんだ悪、罪をイエス・キリストによって神は善に変えて下さいました。ご受難と十字架によって、悪を善に変える決定的な神さまの御業が起こっています。悪を善に、死を命に変えていく神さまの働きがあります。弟子たちが眠りこけている中で、イエス様は、神さまは、祈り働かれていて、救いを実現してくださいました。それが罪深い私たちにとって、この世界にとっての大きな希望なのです。そして、神さまは今も罪に満ちた世界にあって、それがどんな世界、どんな場所、どんな自分であったとしても、そこに神の御心が働いて、神の御心が行われています。悪を善に変えていく神の戦い、御心が働いて、行われています。私たちは「み心がなるように」と祈りつつ、この神の御心に仕えていくように招かれているのです。


 この受難節、イエス様のご受難と十字架によって、私たちを愛し、最善を与えてくださる神さまに感謝して、私たちも神さまの御心がなるように祈りつつ、今も生きて働いておられる神さまに仕えていきたいのです。