東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2018年3月11日礼拝説教

「ペトロのあやまち」マルコ14・66-72    

 

 最近放映されている『anone』というテレビのドラマがあります。家もなく、家族からも見捨てられた孤児の女の子が主人公の物語です。ネットカフェでバイトしながら暮らしていた居場所のない女の子にとって、唯一の拠り所は8歳から12歳までを一緒に過ごした、全てを受け入れてくれる優しい祖母との思い出でした。しかし、

 

 まもなく、その自分の拠り所、居場所としてきた美しい思い出が、実は施設で虐待されていたことを忘れるために自分で気づかずに捏造していた物語であったことが分かったのです。私を守ってくれたのはニセモノだけだった、偽りの思い出、物語が自分を守ってきた。このドラマは偽りをテーマに自分の本当の居場所を探し求めていく物語にも思えます。過酷な現実に立ち向かいながら、そこで支えられ、乗り越えていくためには、自分が本当にホッとして心が安らぐ場所、自分が受け入れられて支えられている、という安心感をもたらす現実の居場所が必要であることを思わせられます。自分が受け入れられ、支えられ、心から安心できる場所。そういう居場所を子どもだけでなく、大人も、誰もが求めています。

 

 昨年の10月に日本キリスト教会の教育委員とされて、日曜学校教師の説教や分級の学びのための季刊の冊子を作る仕事に少し携わるようになりましたが、そのために、他の諸教派の似たようなものも少し目を通すようになりました。最近のものに目を通していくと、よく出てくる言葉は「居場所」という言葉のように思えます。諸教会が子供たちの居場所となることができるように、ということに努められています。それは私たちの教会の課題でもあります。この時代、子供も大人も居場所を求めているのです。


 今日の聖書に出てくるイエス様とその弟子のペトロの物語は、ペトロの居場所をめぐる物語であり、そして、この物語を通して、私たちの一番の居場所はどこにあるのかを教えられます。ペトロは、ガリラヤの湖で漁師をしていた時にイエス様に出会い、網を捨てて、すぐにイエス様に従って旅を始めていきました。ペトロがイエス様に何を期待して従っていたのかはよく分かりません。イエス様は不思議な言葉を語り、不思議な行いをされる人。だから、自分の願望を実現してくれる奇跡を起こす人、この社会を変えてくれることを期待したのかもしれません。イエス様が人をそのまま優しく受け止めてくれることに魅力を感じたのかもしれません。

 

 いずれにしても、イエス様を本当に尊敬し、イエス様に従ってきたのです。そのことが、今日は読んでいませんが、29節に「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」という言葉にあらわれています。イエス様に何か起こって他のみんなが逃げても、自分は逃げずについていく、と言ったのです。その後の30節でイエス様が「はっきり言っておくが、あなたは今日、今夜、鶏が二度泣く前に、三度わたしのことを知らないだろう」と言うと、ペトロはさらに31節で言いました。「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」。この言葉は嘘、偽りのないペトロの本心です。何があっても従っていきます、一緒にいます、と言ったペトロにとって、イエス様こそが自分の居場所だったのです。けれども、イエス様が逮捕され、当時の裁判官である大祭司の前に連れていかれると、弟子たちは皆、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。しかし、このペトロだけは引き返してきました。イエス様に言った言葉を守り通したい、そう思って、勇気を振り絞り、大祭司の前に引かれていったイエス様の後を遠くから従ってきていたのです。

 

 しかし、夜の寒さの中で、人ごみに紛れ、火にあたって温まって、心が緩んできた時、思ってもみなかった出来事が起こりました。大祭司の女中、大祭司の下で働いている女性から、「あなたもあのナザレのイエスと一緒にいた」と言われたのです。ペトロは咄嗟に「あなたが何のことを言っているのか分からないし、見当がつかない」と言いました。明らかに質問をはぐらかして動揺しています。人間の咄嗟に出てくる応答には本心が現れています。心の中の緊張が緩んだ小さな穴から、ペトロの本心が流れ出し、その穴が大きくなって、もう塞ぐことができず、全てが流れ出していくのです。


 ペトロは自分を守ろうと本能的に思い、出口に向かっていきますが、人がたくさんいて逃げ切ることができません。その時、鶏が泣き、もう一度、その女性が来て、みんなに言うのです。「この人は、あの人たちの仲間です」。それを再び否定した時、今度は居合わせた人々が、ペトロに言いました。「確かにお前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから」。その時、ペトロはこれまでとは違った激しい勢いで否定しました。「あなたがたが言っているそんな人は知らない」と誓い始めたとあります。この「誓う」という言葉は「我が身が呪われよ」という言葉です。イエス様の仲間であるならば、この身が神に呪われる者となっても構わない、と言って、決定的にイエス様を否定してしまったのです。


 ペトロは、イエス様が言われた言葉を思い出して、いきなり泣き出しました。「泣き出した」。繰り返し泣き続けた、と読める言葉です。自らの情けなさ、弱さ、罪深さを思い、悔い、崩れ落ちて、激しく繰り返し泣き続けていったのです。考えてみると、イエス様を裏切ったユダも後に激しく後悔しました。けれども、そのユダは自殺してしまいます。しかし、このペトロはそうではありませんでした。その違いは何でしょうか。それは、ペトロがイエス様のみ言葉を思い出しているということです。イエス様のみ言葉から考えるのです。

 

 イエス様のみ言葉を読む時、イエス様はペトロがご自分を否定していくこと、そのことを明らかに知っておられたことが分かります。そして、このようにペトロが自分の言葉で誓ったことを自らの言葉で否定し、崩れ落ち、崩壊し、ぼろぼろになっていくことも知っておられたことが分かるのです。しかし、それでもなお、その弱い自分、破れと欠けのあるペトロを見捨てない。赦し、受け入れて、支えて、共にいてくださっている、そのことを知ることができるのです。それは今に始まったことではなく、イエス様と出会った時から、そうだったのです。


 このイエス様の愛の御心を思い起こしながら、ペトロは自分の弱さ、自分の罪を嘆き、悲しんでいるのです。それがペトロの新しい人生の出発になっていきます。イエス様はこのペトロの罪の結果、その罪の呪いを引き受けて、死なれ、復活されました。ペトロは、この後、復活したイエス様に出会って、イエス様を三度も否定した自分をイエス様が赦し、受け入れ、支えて、共にいてくださることを知り、本当の一番の居場所を深く知らされて、確かめ、立ち直り、他の人々をその恵みを分かち合っていくのです。ペトロの生涯は、自分の居場所がどこにあるのか、そのことを確かめていく歩みでもありました。


 それは私たちの人生でもそうなのです。イエス様はぺトロだけではなく、私たちのためにも死なれ、復活して下さいました。ペトロのような弱く罪深い私たちも愛し、赦し、受け入れ、支えて、共にいてくださっています。私たちの居場所。私たちを本当に受け入れ、支え、安心感を与え、生かしていくもの。それがイエス・キリストであり、イエス様によって示された神の愛であり、神の赦しです。このことが、困難を乗り越えていく力となります。このイエス様の恵みを分かち合うのが教会なのです。

 

 本日は3月11日で、7年前に東日本大震災が起きた日です。災害が起こり、不安や困難、悲しみが起きてくるこの世界にあってどのように確かな歩みをなしていくことができるのか。それは今日の聖書の御言葉からはっきりしています。イエス様が私たちを愛し、私たちと共に苦しんでくださっていること。イエス様が私たちを愛し、赦し、私たちを受け入れ、支えてくださっていること。この神さまの愛と赦しを共に分かち合い、私たちもまた人を受け入れ、支えていくように招かれていること。そのことをイエス様が私たちを助け、可能としてくださるのです。


 今日の聖書の箇所と一緒に読まれる聖書のみ言葉があります。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」(コリントの信徒への手紙二7:10、333p)。ペトロ自身はこのことに思い至っていませんが、このペトロの悲しみこそが、神の御心に沿った悲しみであり、取り消されることのない救い、悔いることのない救いに通じる悲しみなのです。


 私たちにも多くの失敗や後悔があり、悲しみがあります。けれども、私たちを決して見捨てずに愛し、赦し、共にいてくださる神の愛の御心を信じ、自分の罪、弱さ、破れを悲しみ、嘆くこと、そのことがペトロのように神の喜びに生きる人生の始まりとなるのです。この受難節、キリストによる神の愛と赦しの中で自分の罪を悲しみ、力を与えられていく歩みとなるように祈りたいと思います。