東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2018年3月18日礼拝説教

「十字架につけよ」マルコ15・1-15     

 

 「キリスト教」と言えば、「十字架」がすぐに連想されるほど、キリスト教と十字架は固く結びついています。イエス様がそのうえで苦しまれて死なれた十字架はキリスト教のシンボルのようになってきました。そのイエス様の十字架とセットとして昔から覚えられてきたのが「ピラト」という人物です。

 

 今朝の週報をご覧になって気づかれた方もおられると思いますが、週報用紙が新しくなり、裏面の真ん中の「使徒信条」の文字もきちんと修正されています。そして、これまでは「使徒信条」で「ポンテオ・ピラト」とあった人名も、新共同訳聖書と「日本キリスト教会信仰の告白」(口語文)の本来の表現に従って、「ポンティオ・ピラト」に修正しています。

 このピラトですが、使徒信条は紀元200年頃、古代ローマの教会で生まれ、世界中の教会で読まれてきたものですが、ピラト本人からすれば、死後、このような仕方で自分の名前が世界中で覚えられてきたことは思ってもみなかったことであり、不本意なことだったかもしれません。この箇所を読むと、ピラトはいつもエルサレムにいたと思えてしまいますが、そうではありませんでした。

 ピラトはローマ人であり、ローマ帝国の植民地となったユダヤ地方の統治をローマから委ねられたユダヤ総督でした。いつもはエルサレムではなく、ローマの軍隊の支部の駐屯地となっていたカイサリアという町にいたのです。けれども、多数のユダヤ人が地中海沿岸の各地からエルサレムに巡礼にくる過越しの祭りの時には治安維持のため、ローマの軍隊の一部を率いて、エルサレムに来ていたのです。ちょうどその時に、イエス様が縛られて、ピラトの前に連れて来られたのです。

 しかし、どうして、ユダヤの指導者達はローマ帝国の総督であるピラトのもとにイエス様を連れてきたのでしょうか。それはイエス様の教えが自分たちが教えてきた律法の教えとは驚くほど違っているし、そして多くの民衆が引き付けられ、従い始めていたからです。このままでは自分たちの地位が危うくなるので、早く捕らえて何とかしてしまいたい。けれども、ローマの支配下にあるので、勝手に死刑にすることはできません。そこで、ローマ総督ピラトが納得するような罪状、「この人はユダヤ人の王と名乗っている」と訴えて、引き渡したのです。もしユダヤ人の王と名乗ったということになれば、それはローマ帝国に対する反逆罪となり、重い死刑となるからです。

 しかし、ピラト自身は、それはユダヤの指導者達は妬みから言っていることで、そのユダヤの指導者達の言うことを本当に信用していたとは読めません。この人たちが何か不正を働いていることは感じ取っていたのです。ですから、本当に「お前がユダヤ人の王なのか」と問い、何度も確かめています。しかし、イエス様は「それはあなたが言っていることです」と答えた後、「ピラトが不思議に思うほど」、口を開くことはありませんでした。ピラトはユダヤの指導者の言うままに動くのではなく、できるだけ公正に裁き、ローマの威光も示したいと思っていました。でも、大勢の群衆も来ているので、できるだけ事を荒立てずに処理して、ローマからいい評価を得たい。そう思って、今度は群衆の意向を聞いたのです。

 最近「忖度(そんたく)する」という言葉をよく聞きます。他人の気持ちをおしはかること、という意味ですが、ニュースで聞く時はあまり良い意味では使われていないようです。ピラトもまた、自分の名誉、自分の保身のために、群衆の本心・気持ちを推し量り、忖度し、日和見的に判断し、公正な裁きではなく、不正を行ったのです。沈黙し続けるイエス様を当時の極刑、十字架の刑につける決断を下してしまったのです。

 しかし、1節でピラトに引き渡され、15節でピラトから十字架の死へと引き渡される間、どうして、イエス様は沈黙を保ち続けておられるのでしょうか。この箇所の大きなテーマです。一般に裁かれる人は、たとえ訴えられている通りの罪を犯したとしても、罪を軽くしてもらおうと必死になって、何か言い訳をしたり、弁解したりするのが普通です。けれども、イエス様は何も悪いことをしていないのに沈黙しておられるのです。本来ならば、裁きを受けるべきは不正な判断をしたピラトであり、ユダヤの指導者達であり、群衆である、そのように訴えても不思議ではありません。罪に問われ、裁かれるべきは、自分ではなく、あなたたちなのだと訴えても、おかしくはありません。でも、イエス様は、それぞれの不正、悪、罪をあばき、裁くことがおできになるのに、沈黙しておられるのです。なぜ、沈黙しておられるのでしょうか。

 聖書は、不正を見逃して、耐え忍ぶことが正しい、不正な不当な扱いを受けているのにそれを忍耐せよ、言っているのではありません。イエス様は先週の聖書の箇所、イエス様がゲッセマネで「御心にかなうことが行われますように」と祈られたとおり、この自分に起こってくる出来事を通して、神さまの救いのご計画が実現することを信じて、沈黙しておられたのです。その神さまの御心に従って、イエス様は身をもって、その人々が本来は受けるべき神様の裁きから救われること、その人々をかばい守るために、イエス様は黙って裁かれていかれました。それほどまでに、イエス様は、ご自分を十字架につけて殺すユダヤの指導者やピラト、群衆を愛しておられるのです。イエス様を裏切ったユダも、イエス様を何度も否定して逃げていったペトロや他の人々のことも、そしてこの人々と変わらない罪びとである私たちのことも愛するがゆえに、イエス様は沈黙し、裁きを受けられていくのです。

 先ほど歌った讃美歌21の313番はバッハのマタイ受難曲ヨハネ受難曲にも使われているコラールで、それほど大事にされてきた賛美歌です。1番で「愛するイエス、何をなされてこんなさばき 受うけられたか。どんな罪をおかされたのか、愛する主は。」と始まって、途中で「ああ私の罪を担われ 苦しまれた」と歌いながら、最後の5番「何と深い主のみ心よ、何と広いイェスの愛よ。責め苦の道 歩まれたのは私のため。」で終わります。イエス様が沈黙し、裁きを受けられたのは、私のためであり、私を愛してくださっているから。このことを受難節を迎えている今、心に刻みたいのです。

 このように、どこまでも沈黙を保ち、裁きを受けていかれたイエス様によって、私たちに与えられている神さまの救い、それを今日の聖書の箇所に登場してくる「バラバ」に起こったことから考えることができます。それが今回、説教準備をしていく時に驚きを与えられた新しい恵みの発見でした。「暴動のとき、人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた」。もしかしたら、このバラバは反ローマの暴動をおこし、その際に人を殺してしまい、投獄されていたかもしれません。赦されざる罪を犯したことは間違いありません。そして、当時の仕方に従って、死刑の時を待っていたのです。

 けれども、注目したいのは、この赦されざるバラバが釈放され、自由にされる、その代わりに、イエス様が裁きを受け、十字架で死なれていくということです。この箇所に、神さまの福音、救いの恵み、ワンダフル・エクスチェンジ、素晴らしい交換を見ることができるのです。イエス様とバラバ、この二人の間に立場の逆転が起こり、その逆転は私たちにも起こっているのです。イエス様がバラバがいた所にいって、裁きを受け、死なれる。その代わり、バラバはイエス様のいた所にいって、自由にされる。そして、このバラバは、もはやローマ帝国からもユダヤの人々からも、犯罪者として扱われ非難されることはありません。新しく人生を生きる機会を与えられたのです。この後、このバラバがどうなったかは分かりません。しかし、このイエス様とバラバの立場の交換、それがイエス様の十字架によって私たちにも起こっているのです。

 ピラトやバラバのように本来赦されざる罪びとである私たちです。しかし、その私たちを愛し、イエス様は、私たちの全てをご自分のものとして引き受けてくださいました。それが私たちのための十字架の出来事でした。そして、イエス様はご自分のもつ全てを私たちのものとしてくださり、新しい命に満ちた人生の始まりを与えてくださいます。神の愛と赦し、神の命、神の子としての希望。その全てを、私たちに与え、神と共に生きる歩みを始めさせてくださいます。バラバのように罪と死の力、神の永遠の裁きから解放され、神のものとして自由にされ、何もない貧しい者が愛に豊かにされていることを感謝したいのです。

 キリスト教の福音は何もないと思えるもの、罪深い者としか思えない者が神から豊かなものを与えられていることを発見して、その恵みの賜物をもって、神と共に生きることができる、人に仕えていくことができる、ということです。そのようにして人生を支えられ、希望をもって歩むことができる、ということです。

 そうであるならば、その恵みを経験していくために、神の愛と赦しの中で、人生を支えられ、希望をもって歩んでいくために、イエス様が私たちのために沈黙を保って十字架への道を歩まれて裁かれたこと、私たちのために十字架で死なれたことを信じ、受け入れたいのです。この受難節、イエス様を十字架につけた罪びとの一人であり、バラバのような自分でありながら、イエス様はその私たちを愛し、赦し、受け入れ、神共に生きる命に満ちた新しい人生を与えて下さっています。そのことに感謝して、自分を委ね、愛をもって歩んでいきたいと思います。