東京主僕教会の最近一か月の説教など

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2018年3月25日礼拝説教

「なぜ、わたしをお見捨てになったのか」マルコ15・33-41

 

 今日から土曜日まで教会では受難週が始まります。イエス様が弟子たちと一緒に最後にエルサレムに入ってから、十字架で死なれ、墓に葬られていく数日間をたどっていくのがこの受難週になります。

  これまでの最近の礼拝で、マルコによる福音書の14章から、イエス様の最後の数日間に起こったことも、ゲッセマネの祈りや弟子のペトロが三度もイエス様を否定すること、イエス様が裁判にかけられて十字架につけられていく場面なども読んできました。しかし、この最後の数日間の中で、今日読んだ聖書のみ言葉の中にある、イエス様が十字架の上で叫ばれた、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」、この言葉ほど、心に強い印象を残す言葉はありません。

 このイエス様のみ言葉を読む時に、イエス様は絶望して死んでしまったのだ、と読めてしまいます。キリスト教が、十字架で死んだイエスを救い主として信じるものであるのならば、絶望して死んでしまった人をどうして救い主として信じることができるのでしょうか。人生は究極のところ、絶望で終わることを意味しているのでしょうか。この世界には絶望しかない、闇しかないことを意味しているのでしょうか。だとしたら、信じることにどんな意味があるのでしょうか。救い主であるというのなら、絶望せず、その力を発揮して、自ら窮地を脱し、この逆境を乗り越えていくはずだ、それが救い主であるはずだとも思えるのです。けれども、イエス様は違っているのです。

 私たちも人生のなかで、様々な出来事に直面し、絶望を経験することがあります。「なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」と神に嘆き、神に問わざるを得ない経験をする時があるのです。そのような出来事は信仰を持つ人にも持たない人にも起こってきます。最後には誰一人例外なく死を迎えざるを得ません。けれども、この朝、ご一緒に聞きたいのは、このイエス様の十字架の苦しみ、このイエス様の叫びがあるからこそ、この人生を生きていく私たち、絶望を経験している私たちとこの世界の全ての人々に慰めがあり、救いがあり、希望がある、ということです。イエス様の叫びは私たちの叫び、イエス様の絶望は私たちの絶望であり、イエス様の十字架の死によって、闇の世界に希望の光が差し込んでいるからです。

 今日の聖書の箇所で不思議なことが起こっています。「昼の12時になると、全地が暗くなり、それが3時まで続いた」。昼の12時に真っ暗になることは確かに異常な現象です。この暗闇を日蝕が起こったと自然現象として説明されることもありますが、確かなことは、十字架の死の出来事こそが、この世界に救いようのない深い闇が覆ったとしか言いようのない出来事であったということです。神の独り子であり、人々を愛し、弱さを抱えている者、貧しい人々、人々から嫌われている罪人の友となって生きられたイエス様が、不当な裁き、裁判によって、死刑判決を受け、十字架に釘づけにされ、人々の嘲りの中で、何時間もの苦しみを受けた末に殺される。それはまさに暗闇が世界を覆った、としか言いようのない出来事です。たとえ、昼の光が降り注いでいたとしても、そこを支配しているのは人間の罪の闇なのです。罪に支配された人間がどれほど残酷になれるのか。しかも、その人々は自分が正しいことをしていると思い込んでおり、自分が信じる正義ゆえの残酷さを楽しんでさえいるのです。そういう救いのない真っ暗闇に閉ざされた闇の世界、罪の世界があります。十字架において全地を覆った闇は今、そういう残酷さを持っているこの世界、そして、それだけではなく、私たち自身も抱えもっている、私たちを覆って支配している罪による暗闇なのです。

 この深い闇の中で長い時間にわたる激しい苦しみの末に大声で叫ばれた言葉が「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉でした。それは旧約聖書の代表的な預言者エリヤを呼ぶ言葉、救い主の到来に備え、もう一度この世に来ると信じられていたエリヤを呼ぶ言葉ではありません。この言葉は先ほど読んだ詩編22編2節に出てくる言葉と同じです。詩編は信仰深いユダヤ人であるなら、誰もが暗唱しているものです。この詩編22編の最後は、神さまに賛美と感謝をささげて終わります。しかしイエス様がこの詩編22編の全体を知っておられたからと言って、だから、この苦しみはすぐに終わると思っていたとか、この苦しみ、絶望が深刻なものではなかった、ということではありません。本当に神さまに見捨てられたと嘆き、苦しみ、訴える言葉なのです。

 もし、イエス様のこの訴える問いに対して、神さまがお答えになったとしたら、何と答えられたでしょうか。私自身は「いや、あなたを見捨てていない」と神さまは答えられると思います。後に神様はイエス様を復活させられるからです。でもここで沈黙が支配しています。このイエス様が口にされた「わが神」という言葉には、たとえ引用された言葉だとしても、深い意味があると思います。福音書を読むと、イエス様は普段、祈りでは「父よ」と祈っています。親しく、愛する父よ、と呼びかけられます。でも、ここで、いつものように呼びかけるのではなく、「神」と、人々が普段使っている言葉を使っておられるのです。この世界の全ての人々と私たちの立場に自分の身をおいて、ご自分を一つにして十字架の上におられることが分かるのです。イエス様は、私たち人間の全ての罪をご自分のものとして苦しまれ、神の裁きの下に立って、本来なら神に見捨てられたように感じ、叫ばれました。

 イエス様は救いようのない罪の闇に支配され、ともすれば残酷さ、となって現れる、私たちとこの世界の全ての人の罪を負って、神の裁きの下にたたれました。神に見捨てられても仕方のない本来は私たちが味わうべき私たちの絶望を深く感じたられたのです。私たちにはできないことかもしれませんが、そして、なお、わが神よ、と訴え、神をつかんで、神との絆を保ちながら、死なれました。そして、ここで、イエス様のように、罪の闇に覆われた世界にあって、罪故ではなく、不条理な仕方で、絶望の中に置かれた全ての人々の叫び、私たちの理不尽な苦しみの嘆き、叫びを、ご自分のものとして、父なる神に叫ばれた、共に苦しむ神ということも大事に覚えられてきたことです。

 このイエス様の十字架の死によって、罪の暗闇に閉ざされている世界に希望の光が差し込んでいます。それが38節です。息を引き取られた時、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」ています。神殿の垂れ幕はエルサレム神殿で聖所と至聖所を隔てていた幕です。至聖所は神がご自分を現され、神がおられる場所として考えられていましたが、そこには年に一度、罪の赦しのための犠牲の動物の血を携える大祭司のみが入ることができ、それ以外の時に人が入ることを阻んでいたのがこの垂れ幕でした。その垂れ幕がイエス様の死と一緒に真っ二つに裂けたのです。それは神と人との間を隔てていた人間の罪が、イエス様の十字架の死によって赦され、もはや私たちが神の前に出ることを妨げるものはなくなったということです。イエス様の十字架の死によって、罪を赦され、神のものとして贖われ、神の子として下さいました。救い難き者を救い、死の力を無力にして、神の子として、神と共に生きる永遠の命の道を開いて下さいました。「なぜ、わたしをお見捨てになったのか」と嘆かざるを得ない時も、どんな時も神に嘆き、訴え、助けを得ることのできる道が開かれたのです。イエス様はどんな時も、私たちを愛し、共に苦しむ神として、共にいてくださり、私たちを支え、命の道を拓いて下さっています。

 この箇所を読む時に大事なことは、マルコによる福音書15章38節の「裂ける」という言葉が1章10節にもでてくるということです。「裂ける」という言葉がマルコによる福音書の始めと終わりを囲い込んでいます。イエス様が洗礼を受けられた時、「天が裂けて、“霊”が鳩のようにご自分に降って来るのを、ご覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が天から聞こえた」とあります。イエス様が洗礼を受けられた時、天が裂けて、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者.」、あなたは私の愛する子、と神の声が響き渡りました。そして、大事なことは、至聖所の垂れ幕が裂けた、この神の子であるイエス様の十字架の死の出来事によって、私たちが神さまの愛する子供とされた、ということです。それがマルコによる福音書の言いたい大事なメッセージであり、福音なのです。無力な仕方で十字架につけられたイエス様のように、どんなに無力な自分に思えても、どんなに醜い自分に思えても、どんなに弱い自分に思えても、どんなに欠けのある自分に思えても、私たちはキリストに結ばれて、愛する神の子とされているのです。このことは何があっても変わることはありません。これほど力強い福音、強力なメッセージはないのです。

 「イエス・キリストは私たちの絶望を絶望し、私たちの絶望はもはや絶望ではなくなった」という有名な言葉があります。私たちの絶望の只中に希望の光が差し込んでいるからです。今日は3月の終わりですが、震災のこともこの3月は覚えられてきました。このみ言葉は阪神大震災の時も、東日本大震災の時も、そのことを覚える多くの礼拝の時に読まれてきたみ言葉です。どん底で苦しむ全ての人々、不条理な仕方、絶望の中で死を迎えた人々の叫びを、イエス様はご自分のものとして叫び、その人々を背負い、共にいて、御手の中においていてくださっている、ということです。その人々の叫びをご自分の叫びとして、その人々を背負い、御手の中においてくださっている。だから、神との関係を回復し、命の道を拓いてくださっている。死から命の世界へ、苦しみから希望へと導いてくださる。どんなものもこの神の愛から切り離すことはできません。このことを信じることができるのです。このことが遺された人々にとっても本当の慰めとなり、希望となるのです。

 イエス・キリストに私たちとこの世界の救いがあり、慰めがあり、希望がある。私たちとこの世界のために苦しまれ、死なれ、命の道を拓き、どんな時も共にいてくださるキリストこそ、私たちとこの世界の慰めであり、救いであり、希望である。私たちはこのことを信じて、来週のイースターの礼拝を迎えていきたいと思います。