東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2018年3月25日礼拝説教要約

「なぜ、わたしをお見捨てになったのか」マルコ15・33-41

 

 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。この言葉ほど、心に強い印象を残すご受難の時の言葉はありません。キリスト教が十字架で死んだイエスを救い主として信じるのであるのなら、絶望して死んでしまった人をどうして救い主として信じることができるのでしょうか。

 人生は究極的に絶望で終わる、この世界には絶望・闇しかない。このことを意味しているのでしょうか。このイエス様を信じることにどんな意味があるというのでしょうか。

 昼の12時に真っ暗になることは確かに異常な現象です。この暗闇を日蝕が起こったと自然現象として説明されることもありますが、確かなことは、十字架の死の出来事こそが、この世界に救いようのない深い闇が覆ったとしか言いようのない出来事であったということです。神の独り子であり、人々を愛して生きられたイエス様が不当に裁かれ、死刑判決を受け、十字架に釘づけにされ、人々の嘲りの中で、何時間もの苦しみを受けた末に殺される。まさに暗闇が世界を覆った、としか言いようのない出来事でした。罪に支配された人間がどれほど残酷になれるのか。しかも、その人々は自分が正しいことをしていると思い込んでおり、自分が信じる正義ゆえの残酷さを楽しんでさえいます。そういう救いのない暗闇に閉ざされた罪の世界がそこにあるのです。その闇が私たちを覆っているのです。

 ここで、イエス様は普段の祈りで使う「父よ」ではなく、人々が普段使っている「神」という言葉を使っておられます。この世界の全ての人々と私たちの立場に自分の身をおいて、ご自分を一つにして十字架の上におられるのです。イエス様は、私たち人間の全ての罪をご自分のものとして苦しまれ、神の裁きの下に立って、神に見捨てられたように感じ、叫ばれました。そして、イエス様のように、不条理な仕方で、絶望の中に置かれた全ての人々の叫び、私たちの理不尽な苦しみの嘆き、叫びを、ご自分のものとして、父なる神に叫ばれた、共に苦しまれているのです。 

 このイエス様の十字架の死によって、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」、神と人との間を隔てていた人間の罪が赦されました。イエス様の十字架の死によって、罪を赦され、神のものとして贖われ、神の子とされたのです。「なぜ、わたしをお見捨てになったのか」と嘆かざるを得ない時も、どんな時も神に嘆き、訴え、助けを得ることのできる道が開かれたのです。イエス様はどんな時も、私たちを愛し、共に苦しむ神として、共にいてくださり、私たちを支え、命の道を拓いて下さっています。どんな無力な自分、惨めな自分に思えても、どんな時も神の子とされているのです。

 そして、イエス様はどん底で苦しむ全ての人々、不条理な仕方で絶望の中で死を迎えた人々の叫びを、イエス様はご自分のものとして叫び、その人々を背負い、共にいて、御手の中において置いていてくださっています。だから、その人々にも神との関係の回復、命の道が拓かれ、死から命の世界へ、苦しみから希望へと導いてくださる。このことを信じることができるのです。このように叫ばれたイエス・キリストに私たちとこの世界の救いがあり、慰めと希望があるのです。