東京主僕教会の最近の説教など

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2018年4月1日復活祭礼拝説教

「どんな希望があるのか」ヨハネ20・1-18      

 

 今朝の礼拝はイエス・キリストが復活したことをお祝いするイースターの礼拝です。キリスト教の信仰は十字架で死なれたイエス様が復活されたことを信じることです。聖書には、「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄であり、…あなたがたの信仰はむなしく」(コリントの信徒への手紙一15)という言葉があります。イエス・キリストが復活したのだから、それを信じる信仰は無駄ではなく、むなしいことは決してない、必ず希望があるのだ、ということです。それでは一体どんな希望があるのでしょうか。

 

 中島みゆきさんという歌手の「時代」という1975年にヒットした有名な曲がありますが、これまでいろんな多くの歌手が名曲としてこの曲を歌ったり、今でもこの曲が流れているのを耳にすることがあります。それだけ、この歌は多くの人々の心の願いを代弁しているように思うのです。「今はこんなに悲しくて、涙も枯れ果てて、もう二度と笑顔には、なれそうもないけど、…まわるまわるよ、時代はまわる、別れと出会いを繰り返し、今日は倒れた旅人も生まれ変わって歩き出すよ」。人生に失敗をし、挫折をして、倒れる旅人。絶望的な状態、無力な状態になって倒れる旅人。しかし、その倒れた旅人が必ず新しく力を得て、立ち上がり、歩き出すことができるようになる。そんな力を誰もが求めています。人生を歩んでいくためにはその力が必要なのです。その力こそ、イエス・キリストの復活にあるのです。

 

 先ほど読んでいただいたヨハネによる福音書には、倒れた旅人、悲しくて、涙も枯れ果てて、二度と笑顔にはなれそうもない、倒れた旅人が出て来ます。それがマグダラのマリアです。イエス様が十字架で死なれ、墓に埋葬されたのは金曜日でした。そして、マリアは日曜の朝、まだ暗いうちに、夜の暗闇の中で、イエス様の亡骸(なきがら)がおさめられている墓に来たのです。当時のお墓は大きな岩に横穴をくり抜いて、その中に亡骸をおさめ、そして大きな石で入り口を塞いだものでした。しかし、マリアがイエス様の墓に行ってみると、入り口を塞いでいた大きな石が取りのかれているのを見て、イエス様の亡骸が盗まれたと判断し、ペトロともう一人の弟子ヨハネの所に走っていって教えたのです。それは聞いた二人は急いで墓に来て、墓の中には、イエス様の亡骸がなく、その亡骸があった場所に体を包んでいた亜麻布、そして少し離れた所に頭を包んでいた覆いが丁寧に丸めて置かれていたことを発見したのです。それは、イエス様がよみがえり、自ら立ち上がり、亜麻布を置き、そして覆いも置いたことを示しているように思えます。けれども、この二人はそれを見て、心から本当に復活したと信じたとは思えません。しかし何かが起こっていると信じたのです。マリアは、墓から帰ってくるこの二人に出会い、その様子を聞いて、11節で、ますます悲しみが深くなり、泣き続けていきました。

 

 このマリアは「マグダラのマリア」と呼ばれていますが、他の福音書では「7つの悪霊を追い出していただいた」と言われています。以前、何か大変な苦しみを抱えていて、イエス様にその苦しみから解放されて、それ以来、弟子たちと一緒にこのイエス様に従って、仕えながら一緒に来たのです。しかし、そのイエス様が十字架で死なれ、その亡骸もなくなってしまった。これ程悲しいことはありません。涙も枯れ果てる程に泣き続けたのです。私たちも悲しみに打ちひしがれる人生の夜があります。愛する者との死、別れ。自分自身の失敗や挫折。無力さや弱さを痛感する。自分の病気や生活、死の問題、家族が抱える苦しみ。この時代、この世がもたらす苦しみもあります。深い嘆き、悲しみで倒れ伏す暗い夜、死が支配しているしか思えない夜があります。誰もこの夜を免れることはできません。

 

 けれども、マリアが、死の闇が支配していた墓を覗き込んでいた時、「なぜ、泣いているのか」と尋ねる二人の天使に出会いました。さらにもう一度、今度は背後から、同じように問われる復活されたイエス様と出会いました。でも、マリアは振り返って見ても、その人は園丁であると思っています。イエス様は死んでいなくなってしまい、全てが終わってしまった。イエス様と共に生きる物語、自分の人生の物語は終わってしまった。その心の悲しみ、絶望がそれほど深かったのです。しかし、その物語は終わっていませんでした。このマリアを大きく変えた出来事が起こります。この物語のターニングポイントは16節です。16節で「マリア」と自分の名前が呼ばれた時です。死の力に勝利して復活されたイエス様は、泣き続けることをやめないマリアを怒り、叱りません。そうではなく、泣き続けるマリアをやさしく受け入れ、うけとめて、「マリア」と呼びかけ、十字架で死んで復活したご自分がこれまで一緒だったイエスと同じであることを示されました。

 

 イエス様の言葉で「良い羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」という言葉があります。良い羊飼いは自分の羊を知り、その全てを知っています。そして、その名前を呼んで、連れ出します。マリアはイエス様に名前を呼ばれ、復活されたイエス様に自分が知られていること、自分の全てが受け入れられ、愛され、共にいてくださっている、そのことを知って、復活されたイエス様を信じ、力を与えられていきました。イエス様によって闇の中から光の中へ、死の支配から復活の命、新しい命の支配の中へ連れ出され、捕らえられ、包まれていったのです。私たちも一人一人、復活されたイエス様に名前を呼ばれています。私たちも、マリアと同じように、今復活されたイエス様にすべてを知られ、愛され、受け入れられ、やさしく名前を呼ばれ、イエス様は今、共にいてくださっています。

 

 この時、マリアは嬉しくなってイエス様にしがみつきました。けれども、まだ天に昇られる時が救いの完成の時であり、なさねばならないことがあると、しがみつき続けることをやめさせます。私たちは復活されたイエス様を捕らえ、思うがままに支配し、私たちの手の中に治め、自由にすることはできません。けれども、私たちがイエス様に知られ、捕らえられています。その証拠に、イエス様は「私の父」は「あなたがたの父」であり、「わたしの神」は「あなたがたの神である」と言われます。復活されたイエス様に捕らえられ、イエス様に手を握られて、私たちは一つに結ばれています。イエス様と同じく父なる神のものであり、この神の愛する子どもとしての命を与えられているのです。この命は、将来終わりの時、死後いつか復活するだけではなく、今、神さまに愛され、主イエスが共にいて導いて用いてくださる命であり、最善のものがいつも備えられている命なのです。復活されたイエス様が私を愛し、この命を与え、どこまでも寄り添って、私たちを捕らえ、共にいてくださる。このことを知る時、倒れた旅人は新しく立ち上がる力を得て、再び歩き出していくことができるのです。

 

 「マリア」と呼びかけられた時、マリアは自分のいる世界が大きく変わったことを知ったはずです。この世界はイエス様が死んでしまった世界ではありません。神さまが死の力をイエス様によって打ち破り、今も生きて働いて、導いて下さっている世界であり、イエス様が復活された世界なのです。最後には死の力ではなく命の力が勝利し、悪ではなく愛が勝利する世界となったのです。神の愛と命が支配し、満たされて完成していく世界なのです。そして、このイエス様が共にいて、私たちを愛し、私たちを捕らえ、離さずに、神の子としての命、神と共に永遠に生きる命を与え、良きもの、最善のものを備えて下さっています。そして、一人一人の仕方で、神と人とに仕える使命を与えられ、復活の喜びを伝えていく者として遣わされています。何があっても、復活されたイエス様が共にいてくださり、死から命へと導いてくださる。それが私たちの希望です。

 

 死の力を打ち破って下さったイエス様が共にいて、私たちを背負って、最善のものを備えてくださっているからこそ、決して、私たちの人生に立ち上がれない行き止まりはなく、私たちの人生の物語に終わりはありません。私たちの人生もこの世界にも確かな希望があるのです。この復活してくださったイエス様を信じ、勇気をもって、4月からの新しい歩みを迎えていきたいのです。