東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2018年4月8日礼拝説教

「あなたがたに平和があるように」ヨハネ20・19-23

 

 今朝、読んでいただいたヨハネによる福音書には復活されたイエス様と弟子たちの出会いが記されています。この箇所を読む時にどうしても思いだすのが、イギリスの作家C.S.ルイスが書いた『ナルニア国物語』の一作目の「ライオンと魔女」に登場する、ナルニア国の王のアスランというライオンです。

  空襲を避け、ロンドンから疎開した四人の兄妹、少年少女が衣裳箪笥を通って不思議な国、魔女に脅かされているナルニア国に迷い込みます。この兄弟の一人が魔女に唆され、その手下となってしまいますが、思い直して、その魔女を裏切り、アスランと兄妹達の味方になります。しかし、その裏切りの代償として死ななければなりませんでした。でも、王であるアスランが自ら代わってその死を引き受け、殺されてしまいます。けれども、この死んでいたアスランがよみがえり、魔女の館に行き、魔法で石の像にされていた人々に息を吹きかけます。すると、死んでいた人々がよみがえり、始まっていた戦いに参加して、勝利していきます。

 この物語を書いたC.S.ルイスは、クリスチャンの作家ですが、この物語は聖書の福音、復活されたイエス・キリストの福音を人々に知らせたいという願いをもって、イエス・キリストアスランに重ねて描いています。石の像にされていた人々に息をふきかけてよみがえらせるシーンはこの一作目の物語のクライマックスです。ルイスは、このアスランを通して、復活したアスランイエス・キリストには人を支え、新しい命に生かし、立ち上がらせていく力があることを伝えようとしているのです。その物語の土台が今日の聖書のみ言葉であり、ルイスも私たちの人生も、この復活されたイエス様と弟子たちの出会いの物語に連なっているのです。

 復活されたイエス様と出会った弟子たちは、家の戸に鍵をかけてこもっていました。この「戸」という言葉はもともとは単数形ではなく複数形の言葉です。弟子たちは家に幾つもある扉に鍵をかけ、閉じこもっていたのです。これまで慕いながら、救い主だと思って従っていたイエス様が捕えられ、十字架の上にはりつけにされて、死んでしまった。この悲しみと失意に包まれています。そして、このイエス様に従っていた自分たちも見つけられ、捕らえられるかもしれません。町の人々が密告し、捕まえにくるかもしれないのです。居場所を見つけようとして家の戸、心の扉に鍵をかけたのです。将来どうなってしまうかわかりません。将来に対する恐れ、人に対する恐れ、そして、そればかりでなく、自分に対する恐れがありました。イエス様を決して裏切らないと何度も誓っていたにもかかわらず、イエス様を知らないと言って否定して逃げてしまった、自分の失敗を責める思いがあります。自分に自信をもつことができないのです。

 居場所を見つけようとしていた弟子たちは孤独の中で身も心も小さくなっていきました。身も心も縮む思いをし、心の扉に鍵をかけ、心には不安が渦巻いていく。そのことを私たちも経験することがあります。どんなに心に鍵をかけても不安、恐怖が収まることがない時があります。けれども、そこには必ず突破口が開かれ、命の道が拓かれています。十字架で死なれたイエス様が復活して、出会って下さっているからです。
 復活されたイエス様は、不思議な仕方で、弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。この「平和」という言葉は「平安」という意味のある言葉でもありますが、ヘブライ語ではシャローム、日常的な挨拶の言葉として使われている言葉です。しかし、この言葉は単なる挨拶を超えた深い意味をもっています。イエス様が言われた「平和」とは何か、その意味がイエス様が示された手と脇腹に示されています。

 そこにはイエス様が十字架につけられた傷跡があり、しかも、イエス様を見捨て、否定し、逃げてしまったことを思い出させる傷跡でした。しかし、イエス様はこの十字架の苦しみの傷跡の残る手と脇腹を見せられた時、なぜ、あの時、自分を否定し、逃げてしまったのかと問い詰め、叱ることをなさいません。なんてどうしようもない、なんて恥ずかしい人なのか、とけなし、見下すのではありません。ただ「あなたがたに平和があるように」と繰り返し語られます。それは愛と優しさに満ちた言葉でした。「もう恐れなくてよい、悲しまなくてよい。私はあなたたちをありのままを受け入れ、赦し、今、共にいる。これまでも、今も、これからも共にいる。だから、恐れないでよい」と言われるのです。

 死の力に勝利した主が共におられ、神が共にいてくださることによる平安が弟子たちを包みます。居場所を見つけようと探し続けてきて、見つけられなかった弟子たちは、はじめて、「ここで安心していていいのだ」、と本当の居場所を見つけたのです。復活されたイエス様が与えてくださる平和は、神さまがご自分の御子の命を犠牲にしてまでも、私たちを愛し、全ての罪を赦し、ありのままを受け入れて、共にいてくださる平和です。この神共にいます平和が、私たちを支え、新しく生かしていくのです。神さまが愛する神の子として私たちを抱きしめて背負ってくださっている平和なのです。

 今日は午後、八王子の上川霊園の教会墓地で故人記念会が行われますが、2012年に教会で行った愛唱聖句のアンケートで一番多かったのは、詩編23編のみ言葉でした。特に「死の陰の谷を行く時も、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいて下さる(から)」。この聖句は、今も皆さんの心の支えとなり、召された方々を支えてきたみ言葉です。いつも勇敢に見えたキング牧師でさえ、夜、人知れず、恐れを感じ、眠れない夜がありました。けれども、そのキング牧師が平安を与えられ、勇気を与えられたのは、一人の信徒の方から励まされた、復活されたイエスさまが共にいてくださる、ということでした。復活されたイエス様が共にいてくださるからこそ、支えられ、勇気を持ち、希望を持つことができるのです。復活されたイエス・キリストが共にいてくださり、神が共にいてくださる平和を与えられて、それを分かち合っていく。それが礼拝であり、教会なのです。

 復活されたイエス様は、ご自分がいつまでも共にいてくださる、この平和に私たちを包み、聖霊の息吹をもって、使命を与え、この世界に遣わしてくださいます。ナルニアに行った兄弟姉妹が王子、王女として務めを与えられたように、私たちも神の国の世継ぎとして、神の子としての務め、使命を与えられています。どんな人であっても、一人一人、神さまから愛されているかけがえのない一人であり、使命を与えられています。「誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」。人を愛し、赦していく。イエス様が私たちを愛し、受け入れ、赦してくださっていることを信じ、受け入れ、神との平和に生きる、そこから、人を愛し、赦し、希望をもって生きる力を与えられ、新しい命に生かされます。神さまが闇の中で光を、死の現実の中で命をもたらす神の働きに用いてくださいます。

 アッシジのフランチェスコの有名な祈りの言葉があります。「主よ、わたしを平和の器としてください。憎しみがあるところに愛を、争いがあるところに赦しを、分裂があるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、誤りがあるところに真理を、絶望があるところに希望を、闇のあるところに光を、悲しみあるところに喜びを。ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。理解されるよりも理解する者に、愛されるよりも愛する者としてください。…」。

 この言葉は、復活の主が共にいましたもう平和を信じ、神の愛に希望を持つことから生まれているのです。心に鍵をかけ、死んでいたようになっていた弟子たちも、復活されたイエス・キリストに出会い、共にいます平和を与えられて、愛を与えられ、赦しを与えられ、信頼する心を与えられ、真理を示される。闇の中で光を与えられ、悲しみの中で喜びをもたらされる。それが弟子たちに起こったことであり、そこから、慰める者、理解する者、愛する者に変えられていったのです。それは私たちにも繰り返し起こっていくことなのです。復活されたイエス・キリストは、目には見えませんが、今も、この世界と私たちに、聖霊の働きを通して、闇を光へ、死を命へと変えていくために生きて働いておられます。

 私たちも、今朝、礼拝で聖書のみ言葉を通して、今も生きて共におられる復活の主に出会い、神との平和を与えられています。この神の平和を携えて、希望をもって、主の平和をもたらす器とされていきたいと思います。