東京主僕教会の最近の説教など

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2018年4月15日礼拝説教

「命を豊かに受けるために」ヨハネ10・11-18 

 

 先日、アニメ監督で知られている高畑勲さんが逝去されたニュースがありました。テレビアニメの「アルプスの少女ハイジ」や映画「火垂(ほた)るの墓」などを手がけ、宮崎監督と共に「スタジオジブリ」を設立した方ですが、平和への取り組みも熱心にされた方でした。この高畑監督の作品には、丁寧な生活描写の中に、命の喜びを込める作風がくっきりと表れていた、という新聞の記事がありました。

 

 普段の日常の生活には、嬉しいことだけではなく、過ちを犯したり、悩みや悲しいことやつらいことも起こってきます。しかし、そのなかで、命の輝き、尊さ、喜びがある、そのことに支えられ、生かされていくのだ、という思いを高畑さんはもっておられたのかもしれません。どんな人生であっても、誰であっても、命の喜び、輝き、尊さがある。そこから平和への取り組みも生まれていたのかもしれません。


 私たちの人生、日常の生活に与えられている命の喜び、輝き、尊さ、それをどのように見出していくのか。日々の私たちの歩みを支え、輝かせていくもの。私たちに希望を与え、生かしていくもの。それは一体何か、そのことが今日の聖書のみ言葉で告げられています。先ほど交読詩編で読んだ詩編23編は、愛唱聖句でまずあげられることの多い聖書の言葉ですが、疲れた多くの人々を慰め、安らわせ、支え、導いてきた詩です。羊は弱く無力な動物です。羊飼いがいなければ安心して牧草地にいることはできません。羊飼いがいなければ生きることができません。私たちも羊のように自分が弱く、無力な存在であることを覚えることがあります。悩みの中で眠れぬ夜を迎えることがあります。けれども、この詩編を思い出すとき、眠りにつくことができるという方もいます。この詩編はただ安らわせるだけではなく、力を与えてきた詩編です。それはこの詩を歌った人が生きる力の源と出会っている、からです。この詩人は、その力によって、本当の安らぎを与えられているのです。その安らぎと慰めの源は、「主」と言われる方にあります。「主は羊飼い」。主は私を導いてくださる羊飼いであって、そして、イエス様は、先ほど読みましたヨハネによる福音書の聖書の箇所で、「私こそ、その羊飼いであり、良い羊飼いなのだ」と言われるのです。


 「私は良い羊飼いである」。この「良い」という言葉は、「非難される余地のない、理想的な、完全な」という意味の言葉です。本当の真の羊飼いであると言われます。この後に「自分の羊を持たない雇人」が出て来ます。羊の世話をするために雇われた人ですが、最大の関心は自分の給料であって、羊のことに関心はありません。羊のことを心にかけていません。だから、狼など、猛獣が来て、危険が迫ると、羊のために命をかけることはありません。羊を見捨てて、逃げてしまいます。けれども、この良い羊飼いは、命をかけて羊を守るのです。羊のために自分の命を捨てるのです。イエス様は、それが完全な、真の羊飼いであると言われるのです。


 イエス様は事実、この後、ご自分の命を危険にさらして行動されていきます。この後の11章では、ラザロの復活の出来事がでてきますが、イエス様は親しいラザロが死にかけているのを聞いて、自分を石で撃ち殺そうとしている人々がいるにもかかわらず、命がけでラザロの所に向かわれ、死んでしまったラザロの名前を呼び、よみがえらせたのです。この命がけのイエス様の行動がなければ、ラザロの復活はありませんでした。この命がけの行動、命がけの愛が、イエス様の十字架の死で頂点に達しています。実際の羊飼いは、羊を守るために、やむを得ず、狼や強盗と戦って、命を落とすことはあるかもしれません。でも、イエス様は、やむを得ず、ではなく、ご自分から進んで、私たちのために命を捨てられたのです。


 今日の聖書の箇所は、教会の歴史の中で、イエス様が復活されたことをお祝いするイースターの後、そのイエス様が父なる神のもとに行って聖霊を送られるペンテコステまでの期間に読まれてきました。復活されたイエス様が私たちにとって一体どのようなお方であり、どんな恵みを与えられているのかが読まれてきました。


 復活されたイエス様は私たちの良い羊飼いとして、ご自分の羊である私たちのために十字架で命を捨ててくださいました。そして、復活し、私たちにご自分の命、新しい命を豊かに与え、私たちと共にいて、導いてくださっています。私たちのためにご自分の命を捨ててくださる主は、詩編23編にあるように、青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに導き、魂をフレッシュにしてくださり、人生が間違った方向に行かないように、正しめてくださいます。魂の安らぎの点でも、生きる人生の方向の点でも、最善の導きを与えて下さるお方なのです。そのような方がいつも私たちと共にいてくださり、私たちを導いて下さっているからこそ、23編は「わたしは死の陰の谷を行く時も、災いを恐れない」と言うのです。

 

 死の陰の谷、窮地の中にあると思える時、私たちに確信を与え、支えていくのは、自分がこれまで何をしてきたのか、何ができていないのか、というようなことではありません。神様が私たちに何をしてくださっているのか、ということです。神の御子がご自分の命を私たちのために捨ててくださった。それほどまでに、私たちのことを愛し、心にかけ、共にいて、守り、責任をもって導いてくださっている、ということです。そして、ご自分の羊として、私たちを知っていてくださることなのです。


 「わたしは自分の羊を知っている」。この言葉を読むと、ある旅行者がパレスチナを旅して、レバノンの山で羊飼い、牧洋者にあった時の話を思い出します。旅行者は羊飼いに「どうして、たくさんの羊がいるなかで、その中の一匹の羊が自分の羊だと分かるのですか」と聞きました。すると、このように答えました。「私に目隠しをして、どの羊でも、私のもとに連れてきてみて下さい。その羊の顔に手を置くだけで、すぐにその羊が自分の羊であるのかないのかが分かります」。この羊飼いが、羊の一匹一匹をその個性、その独自性も含めて、その全てを知って、心にかけ、愛し、大事に思っていることが分かるのです。その他のたくさんの羊に比べれば、取るに足りない一匹の羊かもしれません。けれども、その一匹をかけがえのない、取りかえのきかない大事な存在、命として、心にかけているのです。


 私が大学時代に通っていた教会で牧師の先生がよく説教で言われていたことがあります。信仰を持つという時に、大事なことは、キリスト教の知識や聖書の知識をたくさん持っていることではありません。パウロが、ガラテヤ書で「神を知っている、いやむしろ神に知られている」と言っているように、羊飼いが自分の羊を知っているように、羊飼いであるイエス様に知られていることを知る、ことです。イエス様に全てを知られ、心にかけられ、愛されている、イエス様が共にいて、守ってくださり、最善へと導いてくださる。そのことを信じることです。私たちがイエス様の羊であり、神のもの、イエス様のものであるということを信じることです。このイエス様がいてくださるから、神さまのものとして、人生を支えられ、生きていくことができるのです。このイエス様と父なる神さまと共に生きる豊かな命を与えられているのです。そこから、普段の生活の中で自分に神さまから与えられている命の喜び、キリストの命に連なる命の喜び、命の輝き、命の尊さを知って、それが他の人にも与えられているのだという視点を与えられていくのです。


 第二次世界大戦のとき、ドイツの教会の人々を導いたディートリッヒ・ボンヘッファーという牧師が、ナチスに捕らえられ、牢獄にいた時に書いた詩が有名になりました。「私は何者か? …私が何者であれ、ああ神よ、あなたは私を知り給う。私はあなたのものだ」。獄中のなかで、自分は何者なのか、わからない。しかし、神さまは、復活の主は自分を知っていて下さる。今も、これからも、自分を知り、愛し、支え、責任をもって、最善へと導いて下さる。自分は神のものなのだ。このことに希望を持ち、勇気を与えられていったのです。

 

 ヨハン・ゼバスティアン・バッハは、夜、眠れぬ人々のために、願われて、有名なゴルドベルク変奏曲を書いたようです。そのカンタータには、詩編23編をテーマとしたものがいくつかあります。それほど、様々なつらいことを経験したバッハを慰め、支え、生かしたものが詩編23編であったことが分かるのです。


 私たちにも自分が何者なのかわからなくなる時があります。つらい夜があり、不安があり、眠れぬ夜があります。けれども、イエス様は私たちのことをご自分のものとして、知っていてくださり、愛し、共にいて責任をもって、導いて下さっています。このことを信じて、イエス様がこの世界の人々を導いていく働きに仕えていきたいのです。