東京主僕教会の最近の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2018年4月22日礼拝説教

「わたしがあなたがたを愛したように」ヨハネ15・11-17

 

 クリスチャンの三浦綾子さんの作品に『塩狩峠』という作品があります。明治時代の北海道で起きた実話をもとにしたもので映画にもなり、ご存知の方々も多いと思います。主人公の32歳の男性の青年は鉄道員でした。

 彼は待ちに待った結納のため、名寄駅から札幌に向かう列車に乗りますが、その列車が塩狩峠の頂上にさしかかった時、突然客車が離れ、暴走を始めてしまいます。恐怖に怯える乗客のために、彼は飛びつくようにハンドブレーキに手をかけますが、列車は止まりません。そこで意を決し、線路に身を投げて、自分の身体をブレーキにして列車を止めたのです。こうして自分の身を犠牲にした青年によって、大勢の乗客の命が助かったという出来事がありました。その頃、ヤソは邪教だと、キリスト教の信者になれば、勘当されかねない時代でしたが、この青年の死によって、数十名の鉄道員たちが信仰をもつようになったと言われています。

 大変な出来事ですが、誰にでもできることではなく、自分だったらこれほどのことはできないのではないかと思えますが、この作品は今も多くの方々に影響を与えていますが、この作品から多くの人々が信仰へと導かれたのならば、人生において本当に大切なものは何か、人生の意味は何かをこの人の行動の動機となったものに命の真理、光を見たのではないかと思わせられるのです。そのことは今の時代にも言えることではないでしょうか。この方の行動は明らかにご自分を犠牲にして命を捨てて復活して救ってくださったイエス・キリストの愛に基づいています。

 今日のヨハネ福音書には「愛」という言葉が繰り返しでてきます。普段の生活でよく聞く「愛」という言葉は恋愛感情に基づく言葉が多いと思います。あるいは親が子を守る時の愛情とか親しい友人の間の友情などを意味することもあるかもしれません。けれども、この聖書の箇所の「愛」という言葉は、もともとギリシャ語ではアガペーという言葉で、恋愛感情や親子の愛情、友情など、人間の自然の情に基づく愛を指す言葉ではありません。一言でいえば「無私の愛」と呼ばれます。一方的に与える愛、報いを求めない愛、犠牲的愛、思いやる愛と言われる言葉です。この意味をもって、今日の聖書の箇所で、「互いに愛し合いなさい。これが私の掟である」という言葉が初めと終わりに繰り返されているのです。

 「互いに愛し合いなさい」という言葉を聞く時、素晴しい教えである、ということに異論を唱える人はいないと思います。互いに思いやりをもち、愛し合い、仕えていくことはとても大事なことであり、それがなされていけば、幸せに生きることができるし、世界の様々な問題も解決し、世界は平和になるとも思えます。けれども、自分の現実、社会、世界の現実を見つめる時、「互い愛し合う」ことが出来ず、むしろ対立し、憎しみ合い、傷つけ合い、赦せずに、殺してしまうことがたくさん起きています。それができない現実があるのです。イエス様の教えには「互いに愛し合いなさい」、この他にも「敵を愛しなさい」、「隣人を愛しなさい」とありますが、その教えを完全に守ることは不可能に思えます。けれども、イエス様はそのことを十分に承知の上で、決して完全に守ることはできないことを承知の上で、そのことを勧めておられるのです。それはイエス様がその愛をもって私たちに働きかけ、私たちが少しずつその愛を心にいだき、互いを思いやり、大切にしていくことができるようにしてくださるからです。

 今日の聖書のみ言葉は15章の1節で「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」、5節で「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」とあります。それが一体どういうことなのか。そのことの具体的な説明が今日のみ言葉です。私たちはイエス様というぶどうの木につながれた枝として、11節、「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされる」、イエス様の喜びが、枝である私たちに与えられて、私たちの喜びとなる。12節で「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と言われ、イエス様の愛が枝である私たちに与えられて、私たちの愛となる、と言われています。イエス様が喜びをもって私たちを愛して下さることによって、その愛の喜びが私たちの内にも満たされ、私たちを愛の喜びに生きる者としてくださいます。イエス様が私たちを愛して下さった、その愛が先にまずあって、その愛が私たちに与えられて、私たちは互いに愛し合う愛を祈り願い求めながら、イエス様が少しずつ私たちに実現してくださるのです。

 しかし、イエス様の愛は尋常な愛ではありません。13節に「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とあります。これは、「わたしがあなたがたを愛したように」と12節にある、イエス様の私たちへの愛とはどのようなものであるかを語っている言葉です。イエス様は私たちの罪を全て背負って、私たちの身代わりとなって、十字架にかかって死んで下さいました。ご自分の命を捨てるという「これ以上に大きな愛はない」愛をもってイエス様は私たちを愛して下さっています。「友のために」とありますが、イエス様と私たちは本来決して対等な友としての関係ではありません。神であるイエス様が主人であり、私たちはその僕として従っていくべき者です。しかしイエス様は私たちを僕として従わせるのではなくて、一人の人間となってこの世に来て下さり、私たちの友となって愛して下さり、喜びをもって、私たちのために命を捨てて下さいました。そして、復活し、私たちを受け入れて、共にいてくださり、その愛に満ちたご自分の永遠の命を私たちに与えて下さっています。その命の中に、その愛に包まれて、私たちもイエス様の友として、私たちと世界に対する神さまの愛の御心を共に知ってイエス様と共に仕えて生きる喜びを与えられるのです。

 ある人は本でこのように書いています。信じたら何かいいことがあるのか、と問われるなら、特にお金持ちになれるとか、悩みが一切なくなったとか、病気が治ったということはない。そして、神や人間について考えれば考える程、自分がどうしようもない人間だ、隣人を愛せと言われても、実際には愛せない、醜さをますます知る。けれども、劇的な拠り所となったものがある。それが「こんな自分が、しかしありのままに神に受け入れられている」という確信であり、それがイエス・キリストの十字架と復活への信仰をもって得られた最大のものだというのです。イエス様が英雄のような形で生きられたのなら、英雄のように歩めない者にとっては何の関りもない遠い存在です。でも、私たちと同じように、苦しみながら死んでいく、私たち以上にみじめなひどい仕方で苦しみながら死なれ、復活され、共にいてくださるからこそ、私たちにも希望があり、慰めがあるのです。その復活されたイエス様に、どんな自分であっても、それがそっくりそのまま受け入れられている、私自身も知らない私まで全てを知っていて、その上で私を受け入れて、神のものとしてくださっている。それが私にとっては限りない安心であり、生きている意味であり、そのことでこうあらねばならない思いから解放され、自由にされたのだ、というのです。「私があなたがたを愛したように」。このイエス様の私たちに対する愛にいつもとどまっていくことが私たちを支え、生かし、新しく造りかえていくのです。

 「互いに愛し合いなさい」。この愛はイエス様から与えられなければ、人間の力では不可能です。だから、イエス様の愛にとどまり、願い求めていく時に、神さまはその願いを聞き、神さまが私たちに力を与え、互いに愛し合うものとしてくださり、神の愛の働く器としてくださいます。それが16節の約束です。どうして、そのように愛され、神さまの働く愛の器とされているのか、その理由はただ一つ、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」、ということです。私たちはどんな自分に思えても、一人一人選ばれて、この場へと導かれています。そして、神さまの愛を知り、愛と命に満たされて、神さまの愛の働く器として、遣わされて、それぞれの場にあって、愛の実りを結ぶものとされています。私たちは主の復活の命、永遠の命がこの身に現れ、神さまの愛、愛の命の支配の現れる場所とされています。「みこころが天になるごとく、地にもなさせたまえ」。そのことが何よりも実現し、その愛の命が現れ、この神の愛を分かち合うのが教会なのです。共にこの神の愛に生かされ、分かち合いながら、神さまに祈りつつ、神さまの愛の働かれる器として、歩んでいきたいのです。