東京主僕教会の最近の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2018年4月29日礼拝説教

アブラハムの祈り」 創世記18章16-33節     

 

 教会では今年1年の大きなテーマを「祈り」としていますが、4月からは礼拝でも月に一度は旧約聖書の信仰者の祈りから学んでいきます。礼拝でも何度も祈りますが、祈りは信仰生活の中心であり、祈りとは神を信頼して神と対話していくことだと言われてきました。人は誰もが祈る心をもっています。

  信仰をもたない人も「幸せを祈っています」と挨拶されます。ではキリスト教の祈りとは何でしょうか。もちろん、喜びの時には感謝、悲しみの時には嘆き、何か願い事がある時にはそのままを祈り、何を祈ってよいのです。けれども大事にされてきたことは、聖書の祈りから学んでいくことです。

 初めは、誰もが「祈ろう」と思っても、何をどう祈ればよいのか分かりません。信仰生活の長い人も何をどう祈ればよいのか、わからなくなる時があります。そんな時に読まれ、人々の祈りとなり、支えてきたのが聖書の祈りです。祈れない時に特に詩編の祈りを声に出して読むと力を与えられます。進路決定に迷う時、思わぬ病気をして入院してつらい日々を過ごす時、様々な試練の時、聖書の様々な祈りが、言葉にならない自分の思いを代わりに語り出し、祈る言葉を与えてくれます。初めは借り物の祈りでよいのです。この聖書の祈りを少しずつ学び、それをまねて、自分に馴染ませ、自分のものにしながら、聖書の時代から、教会の信仰者達は祈り、神に出会い、支えられ、力を与えられてきたのです。

 今日のアブラハムの言葉も大事な祈りの要素として大事にされてきました。「アブラハム」は「信仰の父」と呼ばれ、聖書の信仰の原点となった人です。読むだけで粘り強く祈った人であったことが分かりますが、ここに祈りの大事な要素の一つ、執り成しの祈りがあります。アブラハムの生涯は創世記の12章から始まります。今日の18章の後半ではソドムの町がその罪のゆえに滅ぼされようとしていることが分かり、アブラハムは何とかそれを避けようと祈っています。16「その人たちはそこを去って、ソドムを見下ろす所まで来た」とありますが、18章の前半では「マムレの樫の木の所で」、三人の旅人が高齢アブラハムと妻のサラを訪ね、子が授けられることを告げ、サラの神への不信が信頼へと変えられる不思議な出来事が起こっています。その後、この使者達はソドムの町を見下ろす所に来て、これからそこに行き、ソドムとゴモラの町に起こっていることを確かめると言うのです。

 このソドムの町に何が起こっていたのでしょうか。「ソドム」という言葉にはもともと「不自然な性行動」というような意味があり、性的な犯罪などが横行していたと言われています。しかしそれは一面にすぎません。これらの町は豊かな一方で、格差が広がって貧しい人たちが苦しんでいた状況があり、腐敗、格差、犯罪、そうした数多くの問題が起こっていました。それがソドムとゴモラの町の現実であり、私たちの世界の現実にも重なるのです。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降って行き、彼らの行跡が果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうかを見て確かめよう」。この時、アブラハムは、神様が、それが本当なら正義を実行し、裁きを行うのだと言われていると思い、大胆にソドムとゴモラの人々のために神に祈り始めるのです。

 一つ目の祈りは23節「あなたは正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか」から始まる25節までの祈りです。悪い者と正しい者とを分けず、一緒くたに裁いてしまうのは、あなたが大事にされている神の正義、神の義にかなわないと訴えます。それは理解できる訴えではないかと思います。けれども、このアブラハムの祈りの不思議さは二つ目の祈り、27節からの言葉です。50人、45人、40人、30人、20人、10人。どんなに少なくても、正しい人がいるならば、その人々によって町全体が救われるべきではないですか、という祈りです。正しい者が祝福され、悪い者は滅ぼされる。正しい者を救い、悪しき者を罰し、滅ぼす。秩序を守るために、いつの時代どこであっても、似たような考え方があります。しかし、古代の世界では一人の犯罪者が出ると、その人が属している村全体や家族が裁かれることもありました。それは今もあるかもしれません。けれども、アブラハムは、その逆に、少数でもその町に正しい人がいるなら、その正しい人々のために町全体が滅ぼされずに救われること、それが神の正義ではないのか、と訴えるのです。

 今日の箇所に、繰り返し、「正義」という言葉が出て来ます。神の正義、神の義の内容とは何かが問われています。アブラハムは、神の正義、神の義は、少数の正しい人によって、悪い人々を赦し、悔い改めを待つことである、と言うのです。神の正義、神の義は、罪人を裁く義ではなく、罪びとを愛し赦す義であり、赦して悔い改めを待つ義であると定義して、それを神に求め、神は受け入れられたのです。しかし、実際にソドムには一人の正しい人もいませんでした。でもこのアブラハムの願い、神の正義は、そのままなされずに終わったのではありませんでした。この神の正義、神の義が行われたのがイエス・キリストでした。一人の正しい人・イエス・キリストにおいて、罪ある人間全体が救われる。全ての罪人がキリストにおいて、その罪を赦され、救われる。私たちも、今朝、キリストにおいて、罪ある一人でありながら、神の敵であるような私たちが、赦され、永遠の命を与えられ、神の子・神のものとして、救われている一人一人です。神に愛され、神の義が行われ働いている一人一人であり、導かれています。

 災害や病気、様々な出来事で「神はおられるのか」、「神は義なるお方なのか」、一体正義とは何か、分からなくなる時があります。けれども、私たちが支えられ、生かされ、そこで新しい道を拓かれるのは、このキリストにおいて私たちに行われている、この確かな神の正義、神の義であり、罪びとを愛し、赦す神の正義に立ち帰り、そこに立ち続けていくこと以外にはありません。それを確認したのがルターの宗教改革でした。

 私たちも19節のように、神に愛され、選ばれています。主の道を守り、主に従って正義を行うように招かれています。22「アブラハムはなお、主の御前にいた」。もともとの言葉は「主はなお、アブラハムの前にいた」と多くの学者に指摘されている言葉です。アブラハムを訪れた三人の旅人の一人が神ご自身であり、19章で他の二人の使者がソドムに行きますが、神ご自身がなおアブラハムの前に立ち続けているのです。

 「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているのか分からないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。あなたがたわたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って、実を結び、その実が残るように任命したのである」。先週のヨハネ15章のみ言葉のように、神さまはアブラハムを親しい友として、ご自分の思い、願いを明らかにした後、共にその願い、神の義を求め、神の正義を行うようになるためにアブラハムを選ばれたのです。

 私たちも神さまに愛され、選ばれ、キリストに友と呼ばれています。「主の道を守り、主に従って正義を行うこと」。神の愛と正義を行うこと、神はそのために、その置かれた現実の中で、私たちにその導きと力を与えて下さいます。それに仕えていくのが私たちの使命であり、教会の使命として覚えられてきました。そのことは執り成しの祈りから始まるのです。今朝、キリストにおいて赦され、神の子の新しい命に生かされている者として、私たちも執り成しの祈りから始めていきたいのです。そして、全ての人々が神を知り、神を信じ、神の愛に満ちた正義がこの世界に実現していくように祈り、仕えていきたいのです。