東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2018年5月6日礼拝説教

モーセの祈り」 民数記14章11~19節     

 

 先ほど読んだ民数記には映画の「十戒」でもおなじみの「モーセ」が登場します。モーセイスラエル民族、ヘブライ人の家に生まれながら、エジプト王ファラオの命令によってナイル川の葦の中に捨て置かれてしまいます。

 しかし、ちょうど水浴びに来たファラオの娘に拾われ引き上げられ、ファラオの息子のように育てられました。それに因んで、「引き出す」という意味のある「モーセ」という名前がつけられました。そして、その名の通り、その後、奴隷のようになっていたイスラエルの人々を解放し、約束の地カナンへと引き出す使命を担います。

 英雄のようなモーセに思えますが、決して悩みや苦しみがなかった人ではありません。このモーセは「真ん中の人」と呼ばれることがあります。川の両岸の間、真ん中に置かれる。抑圧的なエジプト人の現場監督と苦しむヘブライ人の真ん中に置かれる。ヘブライ人とファラオの真ん中に置かれる。エジプトから解放されても、なお約束の地へ向かう途中、人々の間にあって様々な困難に直面し、怒りをぶつけられ、神と人々との間、真ん中に置かれます。真ん中に立たせられ、板挟みになり、極限状態の中で苦悩する。それがモーセの人生でした。

 この箇所も、約束の地へ近づいた時、その地を見てきた偵察の報告を人々は聞きますが、待ち受ける先住民の強さを知り、未来の多難さを思って、恐怖に脅え、自分がいかに弱く小さな者なのかに心を奪われます。その恐怖、不安が怒りとなり、モーセにぶつけられます。「エジプトの国で死ぬか、この荒れ野で死ぬ方がましだ。引き返した方がましだ。一人の別の頭、指導者を立てて、エジプトに帰ろう」と、偵察してきた人々さえも石で撃ち殺そうとするのです。そして、今度は神さまが、もう堪忍袋の緒が切れたとばかり、人々を怒り、滅ぼそうとされます。モーセはこの時、神さまと人々の間の真ん中に立ち、板挟みになり、進退窮まっています。自分の力、自分はどんなに弱い小さな者なのかと無力感、絶望感に打ちひしがれたかもしれません。

 私たちの人生にも人間関係、病気、生活、災害など、様々なことで、真ん中、狭間に立ち、破れ口に立って、進退窮まる、と言える状況に直面する時があります。今日のこのモーセの祈りは、旧約聖書の中で最もすばらしい祈りの一つと言われている言葉です。しかし、このモーセの祈りに、私たちが追い詰められ、進退窮まり、滅びの一歩手前と言える時、無力感に苛まれ、絶望感に包まれる時、その時に希望を与え、窮地を乗り越えさせていくものが示されているのです。

 この時、憤慨した神さまは、モーセに「私は彼らを撃ち、彼らを捨て、あなたを彼らよりも強大な国民としよう」と提案しています。かつて先祖アブラハムに約束し、モーセも聞いてきた神さまの約束をなかったことにし、モーセから新しい神の民を造るのだと言われます。モーセにとって、それは悪い話ではなかったかもしれません。けれども、すぐに、この人々を赦すように祈るのが、13節からの祈りです。13節から16節ではこのように祈ります。「周りの諸国の人々は、神さまがエジプトから人々を解放し、この人々と一緒に、先頭に立って進んで導かれていることを伝え聞いている。しかし、もし、今神さまがこの人々を一挙に滅ぼされるなら、人々はこの神は導き出しながら、導き入れることができなかった無力な神、失敗の神だと嘲笑うでしょう」というのです。それは決して、あなたの名誉、栄誉、栄光のためにならないのだ、というのです。私たちが礼拝で神さまを賛美するのは、ただ私たちの気持ちが高揚するから賛美するのではありません。教会において、この世界にあって、そして自分の中で、神さまが高められ、崇められ、偉大とされることを願ってささげられるのです。それは神さまがこの世界と私たちを愛し、救ってくださる神であり、そのために今も働いて下さっている神であるからです。そのことが示されているのが17節から19節の言葉です。

 「今、わが主の力を大いに現わしてください。あなたはこう約束されました。『主は忍耐強く、慈しみに満ち、罪と背きを赦す方。しかし、罰すべき者を罰せずにはおかれず、父祖の罪を子孫に、三代、四代までも問われる方である』と。どうか、あなたの大きな慈しみのゆえに、また、エジプトからここに至るまで、この民を赦してくださったように、この民の罪を赦してください」。極限にまで追い詰められたモーセが、滅びの一歩手前でなした、この祈りの言葉に、モーセがこれまでも、この時も、進退窮まる時も、窮地の時も、何を本当に頼りにし、何に支えられ、力を与えられてきたのかが示されています。「忍耐強く、慈しみに満ち、罪と背きを赦す方」、その神さまの大きな慈しみ。神の民、神のものとして選び、愛し、救いの約束を実現してくださる神であり、そのために今も生きて働いておられる神である。その神こそが、進退窮まるモーセがいつも本当に頼りとし、支えとなり、この神に自分を委ねていくことがその窮地を乗り越える力となったのです。「主は忍耐強く、慈しみに富み、罪と背きを赦す方」。この言葉は金の子牛の事件の後、出エジプト記の34章で、神さまがご自分をどのようなお方であるかを明らかにされた言葉であり、これまでも伝え聞いてきた言葉であったかもしれません。その言葉をモーセは本当に嬉しいこと、喜びとして覚えているからこそ、窮地のなかで、それを持ちだしてくり返し語っているのです。

 「慈しみ」という言葉は、ヘブライ語ではヘセド、神さまの契約を守る永遠不変の愛を示す言葉です。「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたは私の民となる。神の祝福の担い手とされる」。神さまはこのイスラエルの人々と結ばれた契約の約束を、どんなに人々が神さまに背き、裏切っても、神さまは約束を守り、裏切らず、罪と背きを赦し、いつも背負い、共にいて、導いてくださる。この神さまの変わることのない誠実な愛を示す言葉です。モーセはこの神さまの慈しみ、神さまの愛に希望を持っています。この神さまの愛に自分の全存在をかけ、自分の全てを委ね、そこから、力を与えられています。罪を「三代、四代までも問われる」と言われる程に、罪を赦されるということは決して当たり前のことではありません。けれども、それほど重い私たちの罪の赦しを神さまは御子イエス・キリストの十字架によって私たちに行い、神の力、慈しみの力を私たちに示して下さいました。パウロは「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿がはっきりと示されたではないか」とガラテヤ書の3章で言っています。私たちには神さまは目には見えません。しかし、だからこそ、神さまが示されている、十字架につけられた御子キリストの姿を思い描くことが必要なのです。

 私たちは十字架につけられ、肉を裂かれ、血を流され、死なれた神の御子イエス・キリストによって執り成されています。罪と背きが赦され、神さまの愛する子供しての命を与えられ、神のものとされています。どんな時もこの神さまの愛から引き離されることはありません。どんな時も神さまに愛され、背負われ、担われ、導かれています。窮地の中にあると思える時も、この神が共にいて、守り、働いて、神と共に歩む新しい命の道を備えて下さっています。モーセはこの神に愛され、神のものとされていることを信じているからこそ、神の愛に自分を委ね、人々を愛し、執り成しの祈りをし、最善を尽くしていくことができたのです。

 信仰とはこの神に愛され、選ばれ、キリストのものとされていることを信じ、自分を委ねていくことです。いつも共にいてくださるキリストが私たちを助け、支え、共に委ねてくださいます。だからこそ、自分を委ね、このキリストの御手の中に、神の御手の中に自分をおいていくことができるのです。この神に私たちはこの礼拝を通して出会っています。この神に自分を委ねることから、力を与えられて、この週の歩みを始めていくことができるのです。