東京主僕教会の最近の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2018年5月6日礼拝説教要約

モーセの祈り」民数記14・11-19

 

 民数記には映画の「十戒」でもおなじみの「モーセ」が登場します。しかし、決して悩みや苦しみがなかった人ではありません。モーセは「真ん中の人」と呼ばれることがあります。

  川の両岸の間、真ん中に置かれる。抑圧的なエジプト人の現場監督と苦しむヘブライ人、そしてヘブライ人とファラオの真ん中に置かれます。そしてエジプトから解放されても、なお約束の地へ向かう途中、様々な困難に直面し、神と人々との間、真ん中に置かれます。真ん中に立たせられ、板挟みになり、極限状態の中で苦悩する。それがモーセの人生です。そして、このモーセの祈りに、私たちが追い詰められ、進退窮まり、滅びの一歩手前と言える時、無力感に苛まれ、絶望感に包まれる時、その時に希望を与え、その窮地を乗り越えさせていくものが示されているのです。
 不平、不満を繰り返し訴える人々を神は怒り、滅ぼそうとされますが、モーセは13節から16節の祈りにおいて、人々を一挙に滅ぼされるなら、人々はこの神は導き出しながら、導き入れることができなかった無力な神、失敗の神だと嘲笑うでしょう、といって、それは決して、あなたの名誉、栄誉、栄光のためにならないといいます。私たちが礼拝で神さまを賛美し、神さまの栄光をたたえるのは、ただ私たちの気持ちが高揚するから賛美するのではありません。教会において、この世界にあって、自分の中で、神さまが高められ、崇められ、偉大とされることを願ってささげられるのです。それは神さまがこの世界と私たちを愛し、救ってくださる神であり、そのために今も働いて下さっている神であるからです。
 そのことが人々の罪を赦すように訴えて祈る17節から19節の言葉に示されています。「主は忍耐強く、慈しみに満ち、罪と背きを赦す方」。この祈りの言葉に、モーセがこれまでも、この時も、進退窮まる時も、窮地の時も、何を本当に頼りにし、何に支えられ、力を与えられてきたのかが示されています。
 神さまは、イスラエルの人々と結ばれた契約の約束を、どんなに人々が神さまに背き、裏切っても、その約束を守り、裏切らず、罪と背きを赦し、いつも背負い、共にいて、導いてくださいました。モーセはこの神さまの慈しみ、神さまの愛に希望を持っています。この神さまの愛に自分の全存在をかけ、自分の全てを委ね、そこから、力を与えられていきます。重い罪を赦されることは当たり前のことではありません。しかし、神さまはこの罪の赦しを御子イエス・キリストの十字架によって私たちに行い、神の力、慈しみの力を示して下さいました。
 私たちは十字架につけられた神の御子イエス・キリストによって執り成されています。罪と背きが赦され、神さまの愛する子供しての命を与えられ、神のものとされています。どんな時もこの神さまの愛から引き離されることはありません。どんな時も神さまに愛され、背負われ、担われ、導かれています。このことを信じるからこそ、神の愛に自分を委ね、人々を愛し、執り成しの祈りをし、最善を尽くしていくことができたのです。信仰とはこの神に愛され、選ばれ、キリストのものとされていることを信じ、そのようにキリストが助けてくださることを信じ、自分を委ねていくことなのです。