東京主僕教会の最近の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2018年5月13日礼拝説教

「悪い者から守ってくださるように」ヨハネ17:11-19  2018年5月13日

 

 私の父親は牧師で既に召されていますが、教会の礼拝に通うきっかけとなったのは一通の葉書だったと聞いています。高校の終わり、何かの病気になり長期間安静にせざるを得ない時、

  そんな時、祖母が通っていた教会の年配のご婦人から心にかけ祈っているというような一通の葉書を貰い、それがきっかけで、祖母が誘っても礼拝に行かなかった父が礼拝に通い始めた、というのです。うろ覚えなのですが、そんな話だったと思います。自分が覚えられて祈られている。父親にとってはそのことが嬉しく、忍耐を強いられる苦しい状況での支えとなったのだと思えるのです。

 15世紀から16世紀に生きたドイツの有名な画家にアルブレヒト・デューラーという人がいます。その人の「祈りの手」という作品があります。両手を合わせた手首だけの絵ですが、このような逸話があります。デューラーは若い頃大変貧乏で、友人のハンスと二人で絵の修業をしていたのですが、ある時互いに約束を結び、一人が絵の修業に打ち込めるように、もう一人は働いて生活費を稼ぐことにしました。初めにデューラーがイタリアへ行って絵の勉強をし、ハンスは鉄工所で働き続けました。やがて数年経ち、デューラーの評判が高まり、彼の木版画も売れるようになると、彼はハンスにこれまでの助けを感謝し、「もう働かなくていい。今度は私が働いて、君が絵に打ち込めるようにしよう」と申し出ました。しかし、その時には友人の手は長い間の激しい労働で、もはや絵筆(えふで)をもつにはあまりにも節(ふし)くれだち、繊細な筆遣(ふでづか)いのできる手ではなくなっていました。デューラーは友人がどんなに自分のために大きな犠牲を払っていたのかを知りました。そして、ある日、友人が部屋で祈っている声を聞いたのです。その節くれだった両手を合わせ、デューラーのことを感謝して祈り、思うように描けなくなった自分のために苦しまないように、デューラーにこれからも神さまの祝福と守りがあるように一生懸命祈りを捧げていたのです。デューラーは、その友人の祈りの手に支えられ、生かされていたのだと感動し、その手を永久に残そうと筆をとって生まれたのが「祈りの手」という作品でした。私たちも一人一人、「祈りの手」によって生かされ、守られ、支えられています。それがヨハネによる福音書17章のイエス様の私たちのための祈りです。

 イエス様は11節で「わたしはもはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしは身許に参ります」と祈られています。イエス様はこれから捕らえられ、十字架で死なれ、復活し、神さまの御許に行くことをご存知でした。でも、そうなると、これまでイエス様に守られ、助けられ、支えられてきた弟子たちは、残されてしまいます。それは羊飼いのいない弱い羊を狼の中に残していくようなものでした。だから11節で「彼らを守ってください」と祈られます。そして15節でさらに「悪い者から守ってください」と祈られています。「悪い者」とは悪魔・サタンと理解できますが、それに限らず、私たちを神様から離れさせようとする一切の悪い力です。人間関係のこじれ・破れ、病気、戦いや争い、苦しみや嘆き、悲しみ、迫害。どれも私たちを神様から離れさせる力を持っています。だから、イエス様が教えられた「主の祈り」にも「我らを試みにあわせず、悪より救い出し給え」と祈るように教えられているのです。

 私たちは絶えず、神さまから私たちを引き離そうとする力、様々な悪い力に脅かされています。イエス様はそのことを御存知で、そうならないように祈ることを教え、イエス様も自ら弟子たちのために、そして私たちのために祈られるのです。ルカによる福音書22章32節にもイエス様の有名な言葉があります。イエス様がペトロに「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」とあります。この祈りの言葉に支えられてきた人も多いに違いありません。弟子たちのためにイエス様が何度も祈られているのです。でも、その後、弟子たちはイエス様が捕らえられると、すぐにイエス様を見失ってしまうのです。それでも、その後、復活されたイエス様に出会い、イエス様が神さまのもとに戻られた後も力強く一緒に一つになって歩んでいくことができたのは、このイエス様の絶えざる祈りがあり、このイエス様の祈りに父なる神さまが答えて、弟子たちをイエス様へと導き、弟子たちを守り、支え、生かしてくださったからです。

 今日のイエス様の祈りの言葉の中に「彼らを聖なる者としてください」という言葉があります。「聖別してください」とも訳される言葉です。「聖別」というのは「神様のものとして、神さまの御用のために、取り分けること」を意味しています。私たちが聖別されるということは、私たちが神さまのものとされて、神さまのものとして、神さまの御用のために、神さまの栄光のために生きる者となるということです。この世界の人が持つクリスチャンのイメージは、優しくて、穏やかで、親切、酒も飲まない、というようなことかもしれません。けれども、イエス様がここで弟子たちを「聖なる者としてください」と祈られたのは、そのような人にしてください、ということではありません。神さまのものとして神さまとの親しい交わりに生きること、神様の御用のために、神様の栄光のために生きる者としてくださいということであり、私たちをそのようにして守ってくださるのです。

 弟子たちを神のものとして聖めるのは、イエス様の御言葉であり、御言葉を通して示される真理であるイエス様御自身です。イエス様はこの箇所の最後で「彼らのためにわたしは自分自身をささげます」と言われました。この19節が今日の17章のポイントだと言われています。イエス様が弟子たちを神のものとして聖め、赦し、受け入れ、神の栄光のために用いてくださる。そのことを実現するために、ご自分を十字架で捧げてくださいました。そのイエス様の十字架の御業によって、私たちもイエス様に赦され、聖められ、神のものとされて、イエス様と一緒に神さまにささげられ、神さまに用いられるものとされています。

 このヨハネによる福音書の17章は大祭司イエスの執り成しの祈りとも呼ばれますが、私たちのために復活し、天に昇られて、今神の右の座にあるイエス・キリストが今もこのように祈って下さっています。そして、この17章の祈りの言葉から、私たちがどこから来たのか、今どこにいるのか、どこに行くべきものとされているのか、そのことが明確に分かるのです。私たちは神さまに愛され、選ばれている、私たちは神さまのものとされ、イエス様に結ばれている。神さまのものとされ、守られている。神さまのものとして神さまの御用のために、神さまの栄光のために用いられるものとされている。神さまから今ここに派遣され、神さまのもとに戻っていくものである。自分が何者だか分からなくなる時、この祈りを通して、今の自分を発見することができるのです。

 この朝、ぜひ覚えていただきたいことは、この私たちのためのイエス様の祈りによって、どんな時も神さまに守られていることです。聖なるもの、神さまのものとされ、神さまのものとして、神さまに支えられ、生かされ、用いられるものとされている、ということです。直前の16章の終わりには、有名な言葉が語られています。「あなたがたには世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」。イエス様が16章の終わりでこう言ってから17章で祈られているのは、この17章でイエス様は私たちが勇気を出して歩んでいくことができるようにするために祈って下さっているのです。

 「祈りの包囲網」という言葉があります。誰もがその背後にその人のために祈る人がいます。この自分のために祈ってくれている人がいる。その執り成しの祈り一つによって支えられています。そして、今日の聖書のみ言葉で、イエス様ご自身が私たちのために祈ってくださっています。そして、来週の聖霊降臨日の礼拝で聞く聖書のみ言葉では、聖霊自らが、私たちが祈れない時にも私たちのために執り成して祈って下さっていることを聞きます。私たちは多くの力強いとりなしの祈りによって包囲されているのです。四方八方からの祈りに包まれ、神の愛に守られ支えられ生かされています。私たちには日々いろいろな苦しみがあり、多くの問題や危険に包囲されています。しかし何よりも力強い祈りの包囲網の中に存在し、守られ、支えられているのです。このような祈りと愛の包囲網を発見する時、生きる勇気が生まれます。私たちのためにキリストがご自分をささげ、十字架の死をとげてくださった。その事実によって、この祈りと愛の包囲網を発見できるのです。

 たとえ祈れない時にも、自分のために祈ってくれている人がいる、この祈りの包囲網、祈りの手を発見して、共に一つになって勇気を与えられ、愛をもって歩んでいく場所が教会の交わりであり、礼拝なのです。今朝、私たちのために祈って下さっているキリストがおられ、祈りの包囲網の中にある。そのことに勇気を与えられて歩んでいきたいのです。