東京主僕教会の最近の説教など

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2018年5月20日聖霊降臨日礼拝説教

 「神に執り成してくださる聖霊」ローマ8:18-27 

  

「絆」という言葉があります。東日本大震災から、この言葉は私たちの心の中に大切な言葉として刻まれてきました。この「絆」という言葉は、昔は牛や馬をつないでおくための「綱」を指す言葉でした。

 もともとは「縛るもの、束縛するもの」というニュアンスをもった言葉だったのです。それが最近になって、人と人との結びつきを指す言葉として積極的に使用されるようになったのです。

 この不安な時代にあって、未来への希望をつくりだしていくためには、最先端の科学技術にまさって、人と人との絆が不可欠です。けれども、私たちは、人との絆を求めながら、人と人との結びつき、人との絆は難しく、壊れやすいものであることも知っています。しかし、その人との絆をいつも造りだし、支え、輝かしていくものが、どんな時も断ち切られることのない神、イエス様との絆であり、その中で人と人との絆は保たれるのです。今朝、私たちをイエス様へと導き、イエス様に固く結びつける絆として、私たちに送られているのが目には見えない聖霊なる神です。


 今朝は聖霊降臨日の礼拝です。イエス様は十字架にかかられてから三日目に復活され、天に昇り、父なる神さまのもとに戻られるまで40日に渡って弟子たちに現れ、神の国について語られた、と使徒言行録に記されています。そして、天に昇られてから10日後、一つの場所に集まっていた弟子たちに聖霊が注がれました。その聖霊を受けて、力を与えられた弟子たちから教会が生まれていきました。先ほど読んだローマの信徒への手紙の8章18節からの聖書の言葉にはその聖霊を受けていることがどういうことなのかを示されています。


 ここには繰り返し「うめき」という言葉がでてきます。最初は被造物のうめき。神さまによって造られた自然も動物も植物もすべてのものがうめいています。環境問題、自然破壊、災害、戦争、様々な問題によって、神さまに造られた全てのもの、被造物がうめいています。聖書はそのうめきは人類のしてきたこととは決して無関係ではないと理解しています。全てのものを愛し、命を与え、生かそうとされる神さまの愛を無視して、自分以外のものを思うように利用してきた人類の罪。そのこととは決して無関係ではなく、その影響を受けて苦しんでいる。だから、被造物もうめきながら、神さまがもたらしてくださる救いの完成を私たちと一緒に待ち望んでいます。私たちが遣わされているこの世界は、決して希望のない世界ではありません。神さまが救いを完成してくださるという希望があるのです。


 しかし、この世界はなおその時までうめいています。このうめく世界でよりよい世界にしていこうとして一人一人の仕方で仕えている私たちも心の中でうめいています。それは「弱さ」を抱えているからです。今日読んでいただいた終わりの方の26節の言葉に注目していただきたいと思います。「同様に、霊も弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」。「“霊”」とは「聖霊」のことです。「聖霊」という言葉を聞くと、実体が分からず、怖い幽霊のようなものだと考える方もおられるかもしれません。しかし、決して、怖い働きではありません。弱さを抱えて、うめいている私たちを助けてくださる。それが神さまから送られている聖霊なる神なのです。


 この「弱い」という言葉は、もともとのギリシャ語の意味にはもろさ、はかなさ、誘惑に陥りやすいこと、さらには病の意味があり、試練の意味もあります。パウロはこの言葉を「肉の弱さ」という用語でしばしば用いました。具体的には彼自身の「肉体の棘」と言われる「病」、目の病とか癲癇と言われたりします。体の不自由や痛み、病、重荷、そして溜息は誰でも経験しています。しかし、「肉の弱さ」は肉体的弱さ、苦痛だけではありません。「肉」とは肉体だけではなく、全存在が神から離れている人間の存在を指しています。「肉の思いは死」と言うように、人間には常に死への傾きがあり、この弱さは気づいていない時にも、常にひっきりなしにある弱さなのです。肉にあるもの、全ての人間、誰もが常日頃経験している弱さなのです。そして、その弱さの中で、どう祈るべきか分からなくなり、祈りを失うことがあります。本当に悩むということは、生きる力、生きる確信、喜びを失って、神にはお聞かせできないと思える言葉で心がいっぱいになって、気づくと祈れなくなっている、祈りを失ってしまうということです。そのことに気づくことがあるのです。


 けれども、この弱さのなかで、聖霊が「弱い私たちを助けて下さいます」。今朝、この言葉に注目していただきたいのです。この「助けてくださる」という言葉はもともとのギリシャ語の言葉では三つの言葉が組み合わされてできた言葉です。「共に」という言葉。「代わって」という言葉。「取る」という言葉。この三つの言葉です。私たちと共にうめき、私たちに代わって、私たちのためにうめき、そして私たちの弱さの側に身を置き、それをご自分のものとして取ってくださる。私たちが苦しむ時、一人で孤独に苦しんでいるのではありません。聖霊がそのうめきを「共に」してくださり、私たちに「代わって」、私たちのためにうめき、その全てのうめき、苦しみ、重荷の全てをご自分のものとして担い負ってくださっています。それが聖霊の助けです。


 私たちに注がれている聖霊は、私たちの内にあって、私たちのうめきを共にし、私たちのためにうめき、そして神さまに執り成していてくださいます。イエス様は私たちのために十字架にかかられることで私たちのために執り成してくださいました。そして聖霊なる神は「言葉に表せないうめき」をもって、私たちを神の愛する神の子として今も執り成してくださっています。言葉にならないうめき、怒り、不満、呟きが神に聞かれ、受け入れられるように、それをご自分のものとして神さまにうめき、私たちを神さまに執り成して、神さまの愛する子として導いて下さいます。私たちの言葉にならないうめきが聖霊のものとされ、キリストのものとされ、その代わり、「アッバ、父よ」と祈るイエス様の祈りの言葉を与え、この短い言葉で私たちが呼びかけることができるようにして、愛する神の子として導いて下さいます。

 私たちはこの聖霊によって神の愛に包まれ支えられ導かれています。永遠に断ち切られることのないキリストとの絆、神との絆がある。これほどの慰めはありません。神さまがこの絆を与えて、私たちを導いてくださいます。だから、パウロは、その後で、神さまは私たちを結ぶ神さまに結ぶ聖霊の呻きを聞いて、万事が益となるように、万事において、救いの完成に向けてそこから最善がもたらされるように生きて働いてくださるのです。そこに大きな希望があります。

 神谷美恵子という方がハンセン病の療養所にいた人々について書いた『人間を見つめて』の中にこのような文章があります。「人間というものは、人間を越えたものが自分と世界を支えている、という根本的な信頼感がなければ無意識のうちにないならば、一日も安心して生きていけるはずはなく、真の喜び、真の愛も知りえない」。たとえ、現実が暗いものであっても、どんな呟き、うめきを心に抱えていても、私たちは皆、自分を越えたもの、聖霊によって、支えられ、愛されています。倒れても立ち上がることができるように、聖霊によっていつも根底から支える確かな土台、永遠に導いて下さる神の愛の中に置かれています。

 今朝、この聖霊の導きがあり、キリストとの絆、神の愛の中に共に包まれていることに感謝したいと思います。そして、この神の愛に自分を委ねて、周りの人々のため、世界のため、全ての被造物のために祈りたいと思います。