東京主僕教会の最近の説教など

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2018年5月20日聖霊降臨日礼拝説教要約

「神に執り成してくださる聖霊」ローマ8:18-27

 

 ペンテコステに弟子たちに送られた聖霊が今私たちにも送られて、聖霊を受けているということはどういうことでしょうか。この箇所に繰り返し「うめき」という言葉がでてきます。神さまによって造られた自然も動物も植物もすべてのものがうめいています。聖書によれば、そのうめきは、

  命を与え、すべてのものを愛される神さまの愛を無視して、自分以外のものを思うように利用してきた人類の罪の影響を受けて、全ての被造物が苦しんでいます。だから、被造物もうめきながら、神さまの救いの完成の時を待ち望んでいます。そして、私たちもこのうめく世界で仕えながらうめいています。それは「弱さ」を抱えているからです。

 この「弱い」という言葉は、もともとのギリシャ語の意味には、もろさ、はかなさ、誘惑に陥りやすいこと、病や試練の意味もあります。パウロは「肉の弱さ」としばしば語りました。具体的には彼自身の「肉体の棘」と言われる「病」、目の病とか癲癇とか言われます。体の不自由や痛み、病、重荷、そして溜息は誰でも経験しています。そして、人間は全存在が神から離れているものであり、常に死への傾きをもち、その弱さをひっきりなしに常日頃経験しているのです。

 その弱さの中で、どう祈るべきか分からなくなり、祈りを失うことがあります。本当に悩む、ということは、生きる力、生きる確信、喜びを失って、気づくと祈れなくなっている、祈りを失ってしまうということです。けれども、この弱さのなかで、聖霊が「弱い私たちを助けて下さいます」。

 もともともとのギリシャ語の「助けてくださる」という言葉は「共に」、「代わって」、「取る」という三つの言葉が組み合わさってできています。聖霊が私たちと共にうめき、私たちに代わって、私たちのためにうめき、そして私たちの弱さの側に身を置き、それをご自分のものとして担い、背負って、神の子であるものとして、神に執り成してくださっています。これが聖霊の助けなのです。

 私たちの言葉にならないうめきが聖霊のもの、キリストのものとされ、その代わり、「アッバ、父よ」と祈るイエス様の祈りの言葉が与えられます。聖霊は全ての思いがつまったこの短い言葉で私たちが神に呼びかけることができるようにしてくださり、愛する神の子として導いて下さいます。私たちはどんな時もこの聖霊によって神の愛に包まれ支えられています。この神の愛から切り離されることはありません。永遠に断ち切られることのないキリストとの絆、神との絆がある。これほどの慰めはないのです。

 神さまがこの絆を聖霊によって私たちに与えて、私たちを導いてくださいます。だからこそ、パウロは、その後で、神さまは私たちのための聖霊の呻きを聞いて、万事が益となるように、万事において、私たちを救いの完成に向けて、そこから最善がもたらされるように生きて働いてくださることに希望を持つことができるのだというのです。たとえ、現実がどんなに暗いものであっても、どんな呟き、うめきを心に抱えていても、私たちは皆、自分を越えたもの、聖霊によって、支えられ、神に愛されて、導かれています。神の恵みの中にあるのです。

 私たちもこの神の愛に自分を委ねて、周りの人々のため、世界のため、全ての被造物のために祈りたいと思います。