東京主僕教会の最近の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2018年6月3日礼拝説教

「土の器の中の宝」コリント二4:7-15        

 

 先日、ある新聞で将棋の棋士加藤一二三(ひふみ)さんという方がヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』について「良い人間とは」という題で紹介されている文章を読みました。

  この方は24歳の時、大棋士達と戦って確実に負かされる経験をしていった時、「一番いい手を指し続けて勝てるなら、人生もこういう風に生きれば幸せになれる生き方があるはずだ」と思い、それを知るため、カトリック教会ですが、教会の門を叩き、30歳を過ぎて洗礼を受けた後、西洋文学に興味を持ち始め、読み始めて、『レ・ミゼラブル』も読み、感銘を受けたということです。

 主人公のジャン・ヴァルジャンが、世話になったミリエル司教のもとから銀の食器を盗み、憲兵に捕まった時、司教は「私はあなたに燭台もやったのに、なぜ食器と一緒にもって行かなかったのか」と言います。この寛容な態度にヴァルジャンは感動し、良い人間になろうと決心します。そして臨終の時に、司教の姿が浮かんでくるのです。この司教がずっとヴァルジャンの心の中に恩人として居続けていたのです。そしてその影響を受け、憐れみと慈しみを持つようになったのです。加藤さんはユーゴーが「この世は正義だけじゃない、憐れみや慈しみが大切ではないか」と描いていることに感銘を受けた、とありました。

 ヴァルジャンが司教との出会いを通して与えられた神の憐れみや慈しみが、その後の彼の闇の中の光となり、その光がその後の人生を支え、生かし、その人生に現れていく。そのことに多くの人が感銘を与えられてきました。私たちも、今日のコリントの信徒への手紙のみ言葉によれば、キリストによる神の憐れみ、神の愛の光を与えられ、その光の現れる土の器とされているのです。

 コリントの信徒への手紙二4章7節の「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」。このみ言葉はとても有名な言葉であり、愛唱聖句となっている方々も多いと思います。パウロは苦しみに満ちた人生を歩んできた自分を一言で「土の器」と言っています。

 昔のローマ帝国の時代、日常生活では土の器が用いられました。土の器は脆く、壊れやすく、われやすいものでした。この器のようにパウロは自分を本当に脆く、弱く、壊れやすい器と考えていました。人生が順調に行っている時、大きな悩みや苦しみがない時には、自分が土の器であると思うことはないかもしれません。けれども、何か大きな苦しみの中に置かれ、困難に直面する時、自分の無力、弱さや脆さを嫌でも痛感する時があります。パウロも迫害や投獄、鞭打ちや遭難、病気、多くの苦しみを経験し、自分は土の器であり、脆く、弱い存在であることを痛感していました。私たちも、自分は土の器である。パウロのように、そのように思わざるを得ない状況に直面することは避けられません。

 けれども、大事なことは、その土の器は宝を中に宿している土の器であり、心を自分の弱さや脆さではなく、その宝に心を向けていくことです。パウロはこの宝には「並外れて偉大な力」が宿っている、と言っています。「器」と「その中に入れるもの」を考えてみると、器が頑丈で、その中に入れるものよりも力が強い。その器の中に入れるものは、器よりも弱く、脆いものであり、器によって守られる、と考えるのが普通かもしれません。けれども、パウロの言葉はそのような考え方とは正反対なのです。そうではなく、反対に、器はもろく、壊れやすい。けれども、中に入れるものの並外れて偉大な力が、器を守り、支えて、生かしていくのだと言うのです。

 そのことが8節から具体的に書かれています。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」。この手紙の言葉を書いたパウロがここで言っていることは、伝道のために出会った苦難がほとんどです。けれども、私たちもパウロと同じ苦しみではありませんが、キリストを信じていく時に、似たようなことを私たちも経験することは否定することはできません。

 私たちは「四方から苦しめられ」、逃げ場がない、先へ進めなくなる状況に陥ってしまう。でも、器の中に神の宝があるならば、決して「行き詰まらない」、窮することなく、ゆとりも生まれてきます。

 私たちには「途方に暮れ」、どうしたらよいか分からない時があります。日が暮れて、道に迷ったように、闇の中で光を見いだせず、迷子になったように行く道が分からなくなってしまう時があります。でも、この器の中に神の宝があるならば、失望せず、希望を持つことができます。

 私たちには「虐げられ」、人々にむごい扱いを受け、迫害のように苦しめられる。裏切られ、見捨てられた、と思える時があるかもしれません。しかし、器の中に神の宝があるならば、どんな時も見捨てられていないと信じることができるのです。

 そして、私たちには「打ち倒され」、自分ではとても受け止めきれず、受け入れられない出来事に直面し、打ちのめされる時があります。人は何でも受けとめきれる存在ではなく、すぐに倒れてしまう、弱く脆い土の器なのです。けれども、この土の器の中に神の宝があるならば、決して滅びることはありません。立ち直ることができるのです。そういう宝を私たちは与えられているのです。

 この「宝」とは何か。それを黙っているのがもう我慢できない、と言わんばかりに、10節には「イエス」という言葉が連続して出て来ます。この宝とは十字架で苦しまれ、死なれ、復活されたイエス・キリストです。「私たちはいつもイエスの死を体にまとっています」。この「死」という言葉は、もともとは「死」そのものを表現する言葉ではなく、「死につつある状態」、イエス様が苦しみながら死んでいくさまを指している言葉です。そのイエス様を負いながら、歩き回っている。その目的は、11節「生きている間、絶えずイエスのために死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」。イエス様が受けている苦難を自分の苦難と重ね合わせ、そこに働く神のみわざ、神の力を見ています。イエス様を死者の中から復活させた神の力が働いて、イエス様の復活の命、その力が現わされていくものと理解しています。

 私たちは神さまに愛され、イエス様の十字架によって赦され、受け入れられ、復活の命を与えられ、その命に包まれています。イエス様と一つにされ、イエス様がどんな時も一緒にいてくださり、イエス様に守られ、支えられて、生かされ、どんな時も神の愛、神の栄光が現れ、神の命の力が働いていく器とされているのです。だから、最後に行き詰まることはない、失望することはない、見捨てられることはない、打倒されることはないのだ、と信じることができるのです。

 私が神学校を卒業する時、お世話になった先生から送られた言葉を準備の中で思い出しました。ケルトの教会の10世紀の祈りの言葉の中に、日々の始まりの素朴な祈りです。

 「キリストの十字架がこの顔とこの耳を覆って下さるように。キリストの十字架がこの口とこの喉を覆って下さるように。キリストの十字架が、私の腕を、私の肩から、私の手の先に至るまで覆って下さるように。キリストの十字架が私と共にあり、私の前にあるように。キリストの十字架が私と共に、私の後にあるように。キリストの十字架と共に、私がその高みと深みにおいて、全ての困難に直面できるように。私の頭のてっぺんから足の爪に至るまで、私はあなたの十字架の守りと支えの中にあることを信頼します。キリストよ」。

 私たちが土の器であるということは、イエス様によって、心も体も全てが覆われているということです。イエス様が私達の上にも下にも、イエス様が共におられるということです。イエス様に背負われ、守られ、支えられ、導かれているということです。どのような苦しみや破れがあっても、私達に対する神の憐れみ、神の愛が勝利し、支配し、神の子として、神の愛の光、神の栄光の現れる器とされています。それが慰めと希望を与えるのです。

 直前の6節にはこのようにあります。「「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」。このように神さまは必ず私たちをキリストの恵みの光へと導き、神の光の現れる器としていつも働いて、私たちを守り、支えてくださいます。この朝、このイエス様の恵みの中にあることを信じ、神の宝をおさめた土の器として希望をもって歩みを始めたいと思います。