東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2018年6月3日礼拝説教要約

「土の器の中の宝」コリント二4:7-15

 

 先日のある新聞で棋士加藤一二三さんが『レ・ミゼラブル』を紹介する記事があり、その小説にあらわれる憐れみや慈しみに感銘を受けたという記事がありました。

 主人公が司教との出会いを通して与えられた神の憐れみや慈しみが、その後の彼の人生の闇の中の光となり、その光がその後の人生を支え、生かし、その人生に現れていく。そのことに多くの人が感銘を与えられてきました。
 私たちも、キリストによる神の憐れみ、神の愛の光を与えられ、その光の現れる土の器とされています。パウロは苦しみに満ちた人生を歩んできた自分のことを一言で「土の器」と言っています。土の器は脆く、壊れやすく、われやすいものです。この器のようにパウロは自分を本当に脆く、弱く、壊れやすい器と考えていました。人生が順調に行っている時、自分が土の器であると思うことはないかもしれません。けれども、何か大きな苦しみ、困難に直面する時、自分の無力、弱さや脆さを嫌でも痛感するのです。

 そのような時に大事なことは、その土の器は、宝を中に宿している土の器であり、心を自分の弱さや脆さではなく、その宝に向けていくことです。パウロはこの宝には「並外れて偉大な力」が宿っている、と言っています。普通、「器」と「その中に入れるもの」といえば、器が頑丈で、その中に入れるものはそれよりも弱いと考えると思います。けれども、パウロは反対に、器はもろく、壊れやすいものであり、しかし中に入れるものの並外れて偉大な力が器を守り、支えて、生かしていくのだと言うのです。

 私たちは「四方から苦しめられ」、逃げ場がない、先へ進めなくなる状況に陥ってしまう時があります。でも、器の中に神の宝があるならば、決して「行き詰まらない」、窮することがありません。私たちには「途方に暮れ」、どうしたらよいか分からない時があります。闇の中で光を見いだせず、迷子になったように行く道が分からなくなってしまう時があります。でも、この器の中に神の宝があるならば、失望せず、希望を持つことができます。私たちには「虐げられ」、人々に迫害のように苦しめられ、裏切られ、見捨てられたと思える時がある。しかし、器の中に神の宝があるならば、どんな時も見捨てられていないと信じることができるのです。「打ち倒され」、自分ではとても受け止めきれず、受け入れられない出来事に直面し、打ちのめされる時があります。人は何でも受けとめきれる存在ではなく、すぐに倒れてしまう弱く脆い土の器です。けれども、この土の器の中に神の宝があるならば、決して滅びることはありません。

 この「宝」とは私たちの悩みや苦しみをご自分のものとして十字架で死なれ、復活されたイエス・キリストです。パウロは、イエス様が受けている苦難を自分の苦難と重ね合わせ、そこに働く神のみわざ、神の力を見ています。十字架の死と復活の中に置かれ、イエス様を死者の中から復活させた神の力が私たちに働いて、その復活の命、その力が現わされていくのです。イエス様がどんな時も一緒にいてくださり、イエス様に守られ、支えられて、生かされ、どんな時も神の愛、神の栄光が現れ、神の命の力が働いていく器とされているのです。そこに私たちの慰めと希望があるのです。