東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2018年6月10日礼拝説教

「日々新たにされて」コリント二4:16-18

      

 「この国には何でもある。本当にいろいろなものがある。だが希望だけがない」。2002年に出版され、今もなお読まれている村上龍という方の『希望の国エクソダス』という小説のなかの有名な印象的な言葉です。

  「エクソダス」という言葉はもともと旧約聖書の「出エジプト」のことを言う言葉です。神さまの導きによって、本当に弱小の民であったイスラエルの人々は、エジプトの奴隷の地から自由の世界へ脱出し、希望に満ちた大移動をしました。この小説は当時、若者が希望をもつことができない様々な状況を映し出していたとも言われていますが、10数年経った今も変わることはなく、それはますます現実になっているのかもしれません。失望と落胆を経験し、希望を持てず、生きる勇気がなくなってしまう。そのことは私たちの人生にもしばしば起こります。人が希望を持つことはどんなに難しいことかと思えるのです。

 今日のコリントの信徒への手紙の二を書いたパウロもそうでした。4章16節には「だから、私たちは落胆しません」という言葉があります。この言葉は4章の1節にも出て来ます。繰り返し、「落胆しません」と言うのです。そのように繰り返し自分に言い聞かせ、人々に語るほど、パウロの人生には、落胆してしまう様々な出来事がたくさん起こっていました。この後の11章の23節から28節は、今全てを読むことはできませんが、そこを読むと、様々な苦難や困難があり、飢えと渇きがあり、日々迫るやっかいなことや心配ごともあったことが分かります。そして、12章にはどうしても取り去ってもらいたいと願ってやまなかった「肉体のとげ」、何かの大変な重い病気を抱えていたことも分かります。落胆せざるを得ない。希望を失ってしまう。生きる勇気がなくなってしまう。そのような多くの出来事にパウロは直面してきたのです。けれども、「落胆しません」と言うことができたのです。落胆は私たちが自力で、人間の力で抵抗できるほど、容易に変えられる簡単なものではありません。私たちを圧倒して、気力をなくしてしまう大きな力を持っています。けれども、どんな落胆してしまう現実があっても、この落胆を圧倒し、生きる勇気を湧かせていく大きな希望があるからです。

 「わたしたちは落胆しません」。この後に続いて語られる言葉を好きな方も多いと思います。愛唱聖句の本で必ず取り上げられるような言葉です。たとえ「わたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます」。この「外なる人」という言葉を聞くと、生身の自分の肉体、体、この世界の空間、環境などが思い浮かんできます。「内なる人」と聞くと、その「外なる人」、肉体の痛み、苦しみ、倦怠や疲労を感じるところ、自分の内面的なもの、心、魂、精神といったものを思い浮かべます。でも、ここで言われている「外なる人」「内なる人」という言葉は、そのような考え方とは違っています。

 「外なる人」とは、その直前に出てくる「土の器」のように、弱く、脆く、壊れやすい、無力なもの、日々衰え、やがては死を迎えざるを得ない自分の体であり、それだけではなく、同じように脆く、時には壊れてしまう心、精神のことも指す言葉です。私たちの今の自分の心と体、その全てを指す言葉です。しかし、たとえ、日々、衰えていく心身、「外なる人」であっても、その中にある「内なる人」は滅びず、「日々新たにされて」いく。ここに大きな慰めがあります。

 この日々新たにされていく「内なる人」。それはその直前に出てくる復活されたイエス・キリストに堅く結ばれ、捕らえられている、神の子供である私たちです。イエス様は私たちのために死なれ、私たちのために復活し、私たちを赦し、受け入れ、私たちをとらえて、神さまの子供としての永遠の命を与えて下さいました。私たちに与えられている復活の命、永遠の命は、死んでから後にいつか私たちにあらわれてくるのではありません。今現れ始めている命なのです。

 4章の「落胆しません」の言葉の直前に出てくる3章の終わりの言葉が4章を読んでいく時に大事な言葉です。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変えられていきます。これは主の霊の働きによることです」。私たちは復活されたイエス様のものとされて、神の愛の栄光の光を受けながら、今、主の栄光、神の愛の光を映し出し、栄光から栄光へと、主と同じ姿に、神の子としてのイエス様に似たもの、神を愛し、人を愛するものに造り変えられていくというのです。この神さまの愛の働きはどんな時もとまることはないのです。よく見てみると、この3章18節の言葉も、4章16節の後半の言葉も、神の無条件の恵みの働きであることが分かります。どんな私たちであっても、私たちを守り、支え、導いていく無条件に働く神の力があるのです。神さまはどんな時も私たちを愛し、守り、支え、導いてくださるのです。

 先週の日曜日の礼拝では、この4章の直前の7節から15節を読みました。特に7節、私たちは宝の中に宿している土の器である、ということを聞きました。パウロはこの宝には「並外れて偉大な力」が宿っている、と言っています。普通は、「器」と「その中に入れるもの」を比較してみると、器がその中に入れるものよりも頑丈で、強いように思います。その器の中に入れるものは、器よりも弱く、脆いものであり、その中のものは器によって守られる、と考えるのが普通かもしれません。けれども、そうではなく、反対に、器はもろく、壊れやすい。けれども、中に入れるものの並外れて偉大な力が、器を守り、支えて、生かしていくのだと言うのです。そして、この宝が復活されたイエス・キリストであり、この復活されたイエス様のものとされ、このイエス様に守られ、支えられているのです。イエス様によって、神さまにがっちりと捕らえられ、守られ、背負われ、支えられているのです。イエス様が私たちの重荷を共に背負って下さっています。私たちは死の力に勝利したイエス様の命、神の愛の光に包まれて、神の光の現れる器とされて、神さまは私たちにイエス様に似た者に造りかえるために導いてくださいます。だから、「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず…」、日々この希望に生きる新しさを与えられているのです。どんなことがあっても、キリストにがっちりと捕らえられ、キリストと共にある命を与えられ、その命が私たちの中にあり、その命が日々新しくされていく。そういう命、内なる人を私たちは与えられているからこそ、確かな希望があるのです。

 この命を与えられ、この命の光に包まれているパウロは、17節で「栄光」という言葉を用いています。この言葉は「重い」という意味をもっています。私たちを圧倒する重い苦しい現実がある。けれども、それ以上に重い神の愛、神の恵み、神の栄光が今一番重くのしかかり、包まれる。どんな苦しみの中にある自分であっても、今ここで神の栄光に包まれています。この光の中に立ち、神の愛、神の栄光の重さを知るからこそ、苦しみや悩みのさなかにありながら、この将来の栄光を望む時、今自分に重くのしかかる苦しみは、一時のものであり、軽いのだとさえ言うことができたのです。そして、今の苦しみが栄光を得させていく、今の苦しみが神の栄光に向かう道を作りだす、この驚くべき視点を持つことができるのです。それが17節の御言葉です。「私たちの一時の軽い艱難は比べ物にならない程重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」。

 聖書は、私たちにとって見えるもの、それが全て悪いものである、とは言っていません。全ては神の栄光のために用いられるものとされています。けれども、目に見えるものしか見ず、そこにこだわってしまうと、それが崩壊した時、全ては終わりだと落胆してしまいます。しかし、全ては過ぎ去っていきます。大事なことは、永遠に存続するもの、目に見えない永遠のもの、復活されたキリストを見つめ、永遠にそのキリストのものとされている自分、今与えられて新しくされていく命を見つめていくことです。今ここでキリストのものとされ、キリストに守られ、支えられ、神の愛、神の命の光の中に包まれています。そこに立ちながら、勇気をもって歩んでいきたいのです。