東京主僕教会の最近の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2018年6月10日礼拝説教要約

「日々新たにされて」コリント二4:16-18

 

 パウロは、4章1節と16節で「落胆しません」と繰り返して語っています。そのように繰り返し自分に言い聞かせ、人々に語るほどに、パウロの人生には、落胆してしまう様々な出来事がたくさん起こっていました。

 様々な苦難や困難、飢えと渇き、日々迫るやっかいなことや心配ごともありました。12章にはどうしても取り去ってもらいたいと願ってやまなかった「肉体のとげ」、何かの大変な重い病気を抱えていたことも分かります。

 落胆せざるを得ない。希望を失ってしまう。生きる勇気がなくなってしまう。そのような多くの出来事にパウロは直面してきたのです。けれども、「落胆しません」と言うことができたのです。この落胆を圧倒し、生きる勇気を湧かせていく大きな希望があるからです。

 「わたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます」。この「外なる人」は生身の自分の肉体、体、この世界の空間、環境などのことであり、「内なる人」は自分の内面的なもの、心、魂、精神といったものという印象を持ちますが、そうではありません。

 「外なる人」とは、その直前に出てくる「土の器」のように、弱く、脆く、壊れやすい、無力なもの、日々衰え、やがては死を迎えざるを得ない自分の体であり、それだけではなく、同じように脆く、時には壊れてしまう心、精神のことも指す言葉です。そして、日々新たにされていく「内なる人」とは、その直前に出てくる復活されたイエス・キリストに堅く結ばれて捕らえられている、神の子供である私たちのことです。

 イエス様は私たちのために死なれ、私たちのために復活し、私たちを赦し、受け入れ、私たちをとらえて、神さまの子供としての永遠の命を与えて下さいました。この命は死んでから後にいつか私たちにあらわれてくるのではありません。今現れ始めている命なのです。

 3章の終わりの言葉に「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変えられていきます。これは主の霊の働きによることです」。復活されたイエス様のものとされて、神の愛の栄光の光を受けながら、どんな時も永遠につくり変えられていくのです。それが4章の「土の器」、「内なる人」を理解していく時に大事なポイントになのです。

 どんなことがあっても、キリストにがっちりと捕らえられ、キリストと共にある命を与えられ、その命が私たちの中にあり、その命が日々新しくされていく。そういう命、内なる人を与えられているからこそ、確かな希望があります。この神の愛の重い命の光に包まれているからこそ、この将来の栄光を望む時、今自分に重くのしかかる苦しみは、一時のもの、軽いものであり、今の苦しみが神の栄光に向かう道を作りだすとさえ言える驚くべき視点を持つことができるのです。

 目に見える全てのものは過ぎ去っていきます。大事なことは、永遠に存続するもの、目に見えない永遠のもの、復活されたキリストを見つめ、永遠にそのキリストのものとされている自分、今与えられて新しくされていく命を見つめていくことなのです。その時、生きる勇気を与えられていくのです。