東京主僕教会の最近の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2018年7月29日礼拝説教要約

「涙を数えてくださる神」イザヤ38:1-22

 イザヤ書38章で、ヒゼキヤは、涙を大いに流しながら祈っています。「死の病」にかかった時の祈りであり、地上の人生で最後に必ず死を迎えざるを得ない私たちに迫ってくる祈りです。

  ヒゼキヤは紀元前8世紀後半、南のユダという国の王、歴代の王の中では良い王として知られ、名君として名高い人物であり、この時39歳であったといわれています。大国アッシリアの攻撃を受け、大きな危機の中にあり、その問題に神への信仰をもって対処し、王としての指導者の責任を果たしていたのです。しかし、その信仰が揺らいでしまう大きな問題が起こります。それがヒゼキヤの健康の問題であり、重い病でした。どんなに立派な人でも、順調に物事が進んでいる時にも大変なことが起こることが私たちの人生にはあるのです。
 「あなたは死ぬことになっていて、命はないのだから、家族に遺言をしなさい」。このことはヒゼキヤにとってまさに青天の霹靂でした。自分が重い病である。突然自分の死を告げられて動揺してしまうことは当然です。しかしそれだけではなく、自分のいなくなった後のユダの国の行く末を考えると、国全体が抜き差しならない事態になってしまいます。自分のこと、そして王としての責任を考えると、死ぬに死にきれない、涙を流して大いに泣きながら、顔を壁に向けて祈るのです。
 ヒゼキヤは、3節で自分の良い行いを神の前に並び立て、自分の要求を聞いてくれるように、神と取引をしているように思えますが、そのように思ってしまうのも人間の現実です。けれども、大事なことは、その深い所で、自分の力ではどうすることもできないことを認め、ただ神のあわれみにすがっていることです。そして神が祈りを聞いて、涙をご覧になったということです。

10節からその後のヒゼキヤの祈りがあります。10節から「わたしは思った。人生の半ばにあって行かねばならないのか、陰府の門に残る齢を委ねるのか、と」始まる悲嘆の祈りの言葉は20節で「主よ、あなたはわたしを救ってくださった。わたしたちは命のあるかぎり、主の神殿で、わたしの音楽を共に奏でるでしょう」と賛美に変わります。そのきっかけとなるのは17節にあります。「見よ、わたしの受けた苦痛は平和のために他ならない。あなたはわたしの魂に思いを寄せ、滅びの穴に陥らないようにしてくださった」。この苦痛、涙の中で、神との平和を与えられた。神が私の魂、心に思いを寄せ、涙を数え、滅びの穴に陥らないようにしてくださり、新しい命を与え、新しい人生の始まりを与えて下さった。この神に出会い、神が共にいてくださる平和を経験し、終わりと思える現実のなかで新しい人生の始まりを与えられたのです。

 私たちも、祈りと礼拝を通して、私たちの肉をとられ、私たちの涙を流され、私たちの痛みと苦しみ、私たちの死を身に負って、私たちの永遠の友となられたキリストに出会い、神と共に歩む命を与えられ、神の栄光のために用いられる命の始まりをもたらされています。この神の愛からどんな時も引き離されることはありません。この神を信頼して、強められ、恐れを乗り越え、前へ進んでいくことができるのです。私たちの涙を数え、新しい始まりを与えてくださっている神。この神を繰り返し、信じ、強められ、この夏を歩んでいきたいと思います。