東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2018年8月5日主日礼拝説教

「キリストはわたしたちの平和」エフェソ2:11-22    

 

 この8月は戦争と平和の問題について考える機会を与えられる時です。人は誰でも平和を望んでいます。それにもかかわらず、なかなか平和な世界は実現しません。その様々な理由をあげることができるかもしれません。けれども、今日のエフェソの信徒への手紙によれば、その大きな根本的原因の一つは「敵意という隔ての壁」にあります。

 

 平和はそれを取り壊されることから始まるのです。平和を実現するためには「敵意という隔ての壁」が取り壊されなければならないのです。しかし、そのことほど難しいことはありません。「敵意という隔ての壁」という時に思い出すのは、約10年前、アメリカでオマバ氏が黒人として大統領に選ばれたことです。このことはまさに「敵意という隔ての壁」が取り壊された象徴的な出来事の一つであったと思います。オマバ大統領は様々な隔ての壁を取り壊すことに尽力したと言えますが、しかし、今もなお、この世界には多くの争いの現実があり、たくさんの「敵意という隔ての壁」が存在しています。それは人種や民族、国、あるいは貧富の差であるかもしれません。あるいは地位や身分、男か女かという隔ての壁もあるかもしれません。そして、その隔ての壁は、自分とは離れた、この世界の場所にあるだけではなく、身近なところ、そして私たちの中にも抜きがたく存在していることに気づくことがあるのです。けれども、将来、必ず、その「敵意という隔ての壁」が取り除かれていく希望を持つことができるのです。それら全ての隔ての壁は、すでに救い主イエス・キリストの十字架によって取り壊されているからです。その隔ての壁、敵意という隔ての壁を完全に壊して平和を実現し、その平和を完成するために今も生きて働いておられるのがイエス・キリストなのです。

 今日の聖書のみ言葉によれば、戦争、憎しみ、争いの現実から抜け出す道、平和への道は、イエス・キリストの十字架の血によって与えられています。このエフェソの信徒への手紙が書かれた時、生まれたばかりのエフェソの教会の中には大きな壁が存在していました。それは、ユダヤ人出身のキリスト者と異邦人出身のキリスト者との間の壁であり対立でした。当時、ユダヤ人にとって、異邦人、ユダヤ人ではない人は救われるはずのない存在でした。ユダヤ人だけがアブラハム以来の神の民であり、異邦人とは違って律法に従って生きている。けれども、異邦人は自分たちとは違って神の民の印である割礼を受けていない人々であり、神を知らず、神の戒めを守っていない人々であり、ユダヤ人以外の民、異邦人が救われることは考えられないことでした。反対にユダヤ人以外の人にしてみれば、聖書の神というのは、自分とは関係のない神でしかありません。その神を否定し、神から遠く離れて生きていました。ユダヤ人であるパウロが自分について言っていたように、神に対する敵意をもって生きていた、と言えるかもしれません。ユダヤ人と異邦人は互いに仲違いし、遠い存在、自分とは関係のない存在だったのです。

 けれども、まさに互いに遠い存在であり、仲違いし、自分とは関係のない存在だったものが互いに近い存在にされました。14節「実に、キリストはわたしたちの平和であります」。神の御子イエス・キリストが、ご自分の十字架の死によって、ユダヤ人も異邦人も分け隔てなく受け入れ、十字架によって両者の敵意を滅ぼされたのです。神と人との間を隔てる敵意、壁、その全てを取り壊し、破壊して下さいました。一人一人の神への敵意、その罪を赦し、神と和解させ、神の愛する子供として、神が共にいてくださる神の平和の中に両者を置かれたのです。14節に「二つのものを一つにする」という言葉があります。これだけではよく分かりません。けれどもそれが15節で「一人の新しい人を造り上げる」と少し詳しく説明されていきます。新しい「人」、この人は単数形ですので、ユダヤ人も異邦人も別々に新しい人になるのではないことが分かります。そして16節でさらに「一つの体として」と意味が明確にされていきます。キリストによって神に受け入れられ、赦され、神との和解を受け、キリストに結ばれる。そして、キリストの体、神の大きな家族の一員とされ、聖なる神殿、キリストを表していく教会を一緒に形作るようにされていくのです。

 キリストは私たちと神様との間に平和をもたらし、私たち同士の間にも平和をもたらして下さいました。「キリストはわたしたちの平和である」ということは、このキリストの平和の中に自分をおいていく時、私たち自身も平和とされていく、ということです。キリストによって、私たちは神様との間に平和を与えられ、人と人との間においても平和を与えられる。それが、イエス・キリストにおいて与えられている神の恵の現実であり、それが具体的に目に見える形で確かにこの世界に現れているのが教会なのです。

 教会に集う一人一人には弱さがあり、欠けがあり、破れがあります。罪びとが招かれ集まる場所、それが教会です。決して完全な人が集まっているのではありません。けれども、その罪びとである私たちに、神様との間の平和があたえられ、そして人と人との平和が生じていく。それが具体的な所で実現していく場所がキリストの教会なのです。それがこの世界における教会の存在意義なのだとエフェソの信徒への手紙は語るのです。神に愛され、赦され、受け入れられて、神共にいます平和を与えられ、その神との平和をもって、互いの違いを認め、受け入れ、神の愛、平和をもって生きるようにされていく。それが教会であり、教会の礼拝なのです。この礼拝の場において、私たちは神との平和を与えられ、神の平和そのもの、神の平和の道具として、一人一人の生活の場所へ遣わされていくのです。

 私たちの教会の礼拝では行っていませんが、他の教会、またキリスト教会の礼拝の歴史の中で、古くから「平和のあいさつ」というものが行われてきました。礼拝の中で、「主の平和」と言って、礼拝に来ている人々が、隣りや前、後ろの人とあいさつするのです。国によっては握手をしたり、抱擁したりします。罪の赦しの後や聖餐の後で為されることが多いかもしれません。キリストによる神の愛と命、キリストの全ての恵みをいただいている者がまず為すべきこと。それはキリストによって、すでに平和が与えられている、そのことを喜び祝うことです。そうして、キリストの平和そのものとなり、その平和をもたらすものとされて、一人一人の生活の場、家庭や職場、様々な場へ遣わされていくのです。

 アッシジのフランチェスコの有名な祈りの言葉があります。「主よ、わたしを平和の器としてください。憎しみがあるところに愛を、争いがあるところに赦しを、分裂があるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、誤りがあるところに真理を、絶望があるところに希望を、闇のあるところに光を、悲しみあるところに喜びを。ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。理解されるよりも理解する者に、愛されるよりも愛する者に」。

 十字架で死なれ、復活されたイエス・キリストによって、神を憎んでいた者に愛を与えられ、赦しを与えられ、信頼する心を与えられ、真理を示されていく。闇の中で光を与えられ、悲しみの中で喜びをもたらされる。神によって慰められ、愛され、人を慰め、愛する者に、神の平和の道具とされ、与えられた務めに生きる。神の平和の道具とされて、一人一人与えられた場所で、一人一人の仕方で歩んでいく。そこに人生の充実した歩みもあります。だから、私たちの人生にはこの神の平和がいつも必要なのです。どうか、そのために礼拝を大事にして歩んでいただきたいと思います。