東京主僕教会の最近の説教など

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2018年9月30日礼拝説教要約

「天を裂いて降ってください」イザヤ63・7-19

 

 紀元前538年、70年に及ぶバビロンでの捕囚の生活を送っていた人々は故郷エルサレムに帰ってきましたが、エルサレムはひどく荒廃し、生活は苦しく、神殿の再建も思うように進まない困難な状況が続いていました。人々はバビロンの捕囚から解放され、エレサレムに帰ることさえできるなら、自分たちの「将来」が待っていると確信していたのに、エレサレムに帰還しても厳しい現実があり、希望を失っていたのです。

  2011年に『絶望の国の幸福な若者たち』という本が出版され、話題を読みました。格差社会の中で、未来に絶望し、未来に希望がないから、そこで現状に満足していく現代人の状況が分析されています。それは今も続いています。将来への道が全く閉ざされ、それが見えない闇のような現実がある。その中で、一体何を希望の拠り所としていくことができるのか。それがイザヤの課題であり、私たちにとっても大きな課題なのです。

 その再建への道を進んでいくためにまずしていったこと。それが7節からのこれまでの歴史を振り返り、そこに示されている神の恵みを思い起こしていくことです。「わたしは心に留める、主の慈しみと主の栄誉を/主が私たちに賜った多くの恵み/憐れみと豊かな慈しみを」。過去の歴史を振り返り、そこで示された神の恵みを確認します。それがとても重要なことであり、それによって今も支えられていくからです。その恵みは8「彼らはわたしの民、偽りのない子らである」こと、「主は彼らの救い主となられた」ことです。神さまは人々をご自分のものとし、神の愛する子供として下さり、救い主となってくださいました。そのことは9節で「彼らの苦難を常にご自分の苦難とし、御前に仕える御使いによって彼らを救い、愛と憐れみをもって彼らを贖い、昔から常に、彼らを負い、彼らを担ってくださった」ということでした。神は人々の苦難をご自分の苦難として担ってきてくださった担い給う神なのです。それが旧約聖書の歴史に示されてきた神の御業なのです。

 しかし、問題は今その神の御業が見えないことです。厳しい荒廃した現実、将来への道が全く閉ざされて見えない闇の現実の中で、神はどこにおられるのか、と訴えざるを得ない現実があるのです。だから、人々に代わって、イザヤは嘆き訴えて祈るのです。「どうか、天を裂いて降ってください」。

 しかし、神は天高くにおられ、輝かしい聖なる宮に腰を降ろしたままであり、地上に佇む私たちを見下ろしている神ではありません。この祈りに応え、神さまは民の罪を贖い、ご自分のもの、愛する子供としてくださるために、自ら天を裂いて降ってくださいました。その出来事が御子イエス・キリストの御降誕なのです。

 ヘブライ人への手紙2章18節「事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」。御子は私たちを担い給う神です。その神がどこにおられるのかと思える時に「天を引き裂いて下ってください」と祈っていく時、低きに降り、私たちを担われる御子に出会い、闇の中に光、絶望の中に灯、死の中に命が現われ包み込まれるのです。この希望に目を開かれ、支えられ、助けを得ていくことができるのです。