東京主僕教会の最近の説教など

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2018年10月14日礼拝説教

「永遠の命を受け継ぐには」マルコ10:17-31 

 

 私が一年に一度思い出したように見る映画の一つに『千と千尋の神隠し』という宮崎駿監督の映画があります。主人公の千尋が不思議な世界に迷い出て、最後に日常の人間世界へもどる話です。その話には「カオナシ」という、お面をかぶったような不思議なキャラクターが登場します。

  このカオナシは無垢であるゆえに孤独であり強欲、また従順であり子どものような人物です。カオナシは顔のある人たちの存在感の強さと比べれば、影が薄く、行き場がありません。いつも孤独で寂しさを抱え佇んでいるのです。このカオナシに対して主人公の千尋だけが温かく接していくのです。『千と千尋の神隠し』のプロデューサーの方によれば、『千と千尋の神隠し』は実は千尋カオナシの物語であるということです。このカオナシに人間誰もが持っている本質が表されているからではないかと思います。現代に生きる人々も同じものを抱えて生きているのです。どこから来て、どこへ行くのか分からない。行き場のない放浪者であり、寄る辺なさを抱えている。本当に頼りにできるものを見いだせない孤独と不安を抱えている。それがカオナシであり、そのことが今朝のマルコによる福音書に登場する人物にも表れているのです。

 イエス様がエルサレムに向かう旅に出ようとされると、一人の人が走り寄って、ひざまずいて尋ねました。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。この人はこの後を読んでいくと、ユダヤ教の伝統の中で育った人であることが分かります。教会学校に通って育ってきたように、小さい時から十戒を教わってきたのです。その全てを守ってきたと言っています。この人はこれまで、自分が善い行いを積み重ねることによって永遠の命を獲得しようと努力してきました。しかし、いくら努力しても、「これで十分」とは思えません。まだ何か足りない、永遠の命を得るには十分ではないとしか思えません。その不安をぬぐい去ることができないのです。本当にこのことを頼りにしてよいのか。本当に頼りにできるものを見出せない。その寄る辺なさ、孤独と不安を抱えている。それは私たちの姿でもあり、私たちにとって本当に頼りになるものとは何か、そのことが示されているのです。

 この人は「永遠の命を受け継ぐには」と言っています。旧約聖書ユダヤの伝統では、永遠の命とは約束の土地を受け継いでいくことです。それはいつか将来、終わりの時にもたらされる神の国によって実現します。そのことから考えると、肉体の死が私たちの歩みの最後ではないということです。私たちの歩みは死んでしまって全てが終わりとなるのではなく、肉体の死を越えた彼方に神様の恵みによる新しい命が与えられます。それがここで永遠の命として言われていることです。大事なことは私たちを最後に支配するのは死の力ではなくて神様の恵みです。そのことを信じるなら、様々な苦しみや悲しみがあっても、たとえ肉体の死による終りに直面しても、なお生きる価値のある、喜びのある、希望のある歩みとなり、神様の恵みによって支えられていく歩みとなります。それが永遠の命を受け継ぐことであり、神様が与えて下さる救いなのです。日常の生活の中でのいろいろな悩みや苦しみが解決する、病気が治るということを救いとして期待することがありますが、それは大事な悩みの解決ではあっても、聖書によれば、神様による救いそのものではありません。聖書では「永遠の命を受け継ぐ」ことが神様による、神様のみが与えることができる救いなのです。その救いが私たちを支え、力となるのです。

 この人はその救いを求め、永遠の命を求めて、イエス様のもとに来たのです。この神様が与えて下さる永遠の命に至る道、良い行いをイエス様が教えてくれると信じて、「善い先生」と呼んだのです。 神様の救い、永遠の命は、私たちが良い行いを積み重ねて、自分の力や努力で獲得できるものではありません。それは神様が恵みによって与えて下さるものです。それを受け継ぐために、自分がどういう善いことをし、どのように立派な者になるかということが大事なことではありません。ただ一人の善い方である神様を見つめ、その神さまの恵みにより頼んでいくことが大事なのです。だから、イエス様は「なぜわたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」と言われたのです。

 イエス様が「あなたに欠けているものが一つある」と言われた時、この人はまさに「それこそ私が聞きたいことであり、これから私が努力し、行うべき一つのことは何ですか」と思って、イエス様の言葉に聞いていたと思います。しかし、イエス様がお語りになったことはこの人にとって思いもしていなかったことでした。「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。財産を全て売り払って、貧しい人々に施し、それからイエス様に従っていく。それがあなたになお欠けている一つのことだと言われます。この言葉を聞いた時、この人は気を落とし、悲しみながら立ち去りました。自分にはとてもできないと思ったからです。永遠の命を受け継ぐためにしなければならないことがこれほど大変なことであるのなら、自分はとてもそれを得ることはできない、と思ったのです。そういう絶望感をもってイエス様のもとを立ち去っていったのです。

 もし、永遠の命を受け継ぐために、神様の救いにあずかるために、全財産を売り払って、貧しい人々に施し、無一文になって、イエス様に従っていかなければならないとしたら、私たちもこの人と一緒に、気を落とし、悲しみながら立ち去るしかないのではないでしょうか。「全財産を売り払って施し、私に従いなさい」。しかし、イエス様のこのみ言葉は、永遠の命を受け継ぐために、私たちが何か満たさなければならない条件を語っているのではありません。さらに努力していくべき何かを言っているのではありません。これまでのように自分の力、自分の努力で、善い行いをし、その実績によって救いを獲得しようとする生き方を捨てるようにと言われているのです。自分の善い行いという財産を一生懸命に積み上げる。自分の善い行いという富に頼って、救いを得ようとする。その思いを捨てて、神様の恵みにより頼むようになることによって救いを得ることができるのです。

 今日の聖書の「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」というみ言葉に注目したいと思います。「慈しんで」とありますが、もともとは「愛して」という言葉です。「イエスは彼を見つめ、彼を愛して、言われた」のです。イエス様はこの人をずっと、愛と慈しみのまなざしで見つめておられました。これまでも、話している時も、去っていく時も、愛と慈しみのまなざしが注がれていたのです。この後、この人がどうなったのかは書かれていません。しかし、この後もイエス様の愛と慈しみのまなざしは変わらずにこの人に注がれていたと言えるのです。そして、この人は後になって、このイエス様の深い愛を知り、弟子たちと同じように、イエス様に従う者に変えられていったのだとマルコによる福音書は伝えたいのではないかと思うのです。私たちもそのようにイエス様の愛のまなざしの中にあります。今日の聖書の箇所には「金持ちの男」という見出しがついていますが、それは後を読んでいけば分かることで、最初は「ある人が」となっています。それはマルコによる福音書がこの出会いを読む人々、私たちも「ある人」であり、この出会いの物語が私たちのイエス様との出会いの物語であることを示しているのです。

 イエス様は「全てを捨てて私に従いなさい」というみ言葉の前にうなだれて立ち去るしかないこの人、そして私たちを愛し、十字架の死への道を歩んで下さいました。私たちの全ての罪を背負って死んで下さり、復活して下さったことによって、永遠の命を受け継ぐ救いの恵みを、神様の恵みと慈しみによって与えられる救いの道を開いて下さいました。このイエス様がいつも共にいてくださり、私に従ってきなさいと招いて下さっています。このイエス様こそ、寄る辺なさの中にたたずむ私たちにとって本当に頼りとなるお方なのです。カオナシのような私たちをイエス様は愛し、共にいて下さっています。

 聖書の学びの会で読んでいるヘブライ人への手紙の12章28節に「このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう」とあります。ローマ帝国の支配のもと迫害に苦しんでいた人々に書いてきた説教の言葉で最後になって訴えている福音の言葉です。様々なことで揺り動かされる現実の中で寄る辺なく孤独と不安の中にある私たち。けれども、「揺り動かされることのない御国を受けている」。確かな神の国、神の支配、神の愛と命に捕らえられている。だから、感謝しようというのです。その神の国、神の恵み、神の愛が今日のイエス様に表れています。

 今日のみ言葉は、寄る辺なさを抱えている私たちにとって、本当に頼りとなり、不安と恐れから解放してくださるのは、ご自分を犠牲にしてまでも私たちを愛し、永遠の命を受け継ぐ救いの道を拓き、神さまの恵みを私たちに与えてくださっているイエス様であることが示されています。このイエス様に自らの無力を受け入れ、自分を委ね、希望をもって、歩んでいきたいと思います。