東京主僕教会の最近の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。なお、礼拝音声は諸事情により、しばらくの間おくことにしていますので、ご了承ください。

2026年11月8日礼拝録音

礼拝情報は下記にあります。

【1】礼拝順序

《 前    奏 》

《 神の招き 》

招きの言葉(起立)           アモス書5章24節

讃 美 歌(起立)           21-17

《 罪の告白 》

罪の告白の祈り(起立)    交読詩編 詩編32編

主よ、あわれみを(起立) 21-32(2回)

恵みの言葉(起立)           ヨハネによる福音書3章16節

《 神の言葉 》

聖霊の導きを求める祈り

聖書朗読            ヨシュア記24章22-24節、マタイによる福音書25章1-13節

讃 美 歌(起立)      21-230

説   教                    「消えないともしび」

《 感  謝 》

執り成しの祈り

讃 美 歌(起立)           21-509

信仰告白(起立)             使徒信条

奉   献

主の祈り(起立)

《 派 遣と祝福 》

頌   栄(起立)           21-24

派遣の言葉(起立)

祝   福(起立)

《 後  奏 》

*健康上お立ちになりにくい方は着席のまま礼拝をお守り下さい。

 

【2】聖書朗読

ヨシュア記24章22-24節

22 ヨシュアは民に言った。「あなたたちが主を選び、主に仕えるということの証人はあなたたち自身である。」彼らが、「そのとおり、わたしたちが証人です」と答えると、
23 「それではあなたたちのもとにある外国の神々を取り除き、イスラエルの神、主に心を傾けなさい」と勧めた。
24 民はヨシュアに答えた。「わたしたちの神、主にわたしたちは仕え、その声に聞き従います。」 

 

マタイによる福音書25章1-13節

1 「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。
2 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。
3 愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。
4 賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。
5 ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。
6 真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。
7 そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。
8 愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』
9 賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』
10 愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。
11 その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。
12 しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。
13 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。

 

【3】説教

先ほど歌っていただいた讃美歌21の230番「目覚めよと、呼ぶ声す」の歌詞は今日のマタイによる福音書の御言葉から生まれています。16世紀後半、ドイツでペストが猛威を振るい、人間の力ではどうすることもできない圧倒的な暗闇に人々が直面していた時代に、フィリップ・ニコライによって作詞・作曲されました。ニコライは、アウグスティヌスの名著『神の国』を読み、深い慰めを受けたと言われています。私たちが生きるこの世界にも、災害や戦争、病気や死、悲しみ、そして人間同士の争いや不条理な不正義が満ちあふれています。しかし、復活し、天に昇られたイエス・キリストは、再びこの世界に来てくださいます。そして、すべてを正しく審き、癒やし、回復してくださいます。もはや涙も、嘆きも、痛みもない「神の国」を完成してくださいます。だからこそ、イエス・キリストが再び来てくださることは私たちの大きな希望です。この世界と私たち一人ひとりを決してお忘れにならず、必ずご自身のもとへ迎えてくださり、救いの完成の約束を実現してくださる。ここに私たちとこの世界の最終的な目的地があります。この希望こそ、今苦難のなかにあっても支えられていくための確かな力となります。待降節を目前にした教会暦の終わり、一年の終わりを迎えていく時、世の過ぎ去るものに心を向けるのではなく、イエス・キリストに心を向けて、希望をもって主の再臨を待ち望んでいく姿勢を整えていくのです。

主イエスは、ご自身が再び来られ、神の国が完成するときに備えて、どのように生きるべきかを「十人の乙女のたとえ」によって語られました。夜の闇の中で花婿を迎えるため、灯火を掲げて待っていた十人の乙女たち。しかし、花婿はいつ帰ってくるのか分かりません。その日、その時は分かりません。花婿の到着が真夜中まで遅れたため、彼女たちは皆、眠り込んでしまいました。ここで心に留めたいのは、主イエスが、疲れ果てて眠り込んでしまった乙女たちの弱さや限界を咎めておられないということです。主は、私たちの肉体の弱さや限界を誰よりもよくご存じです。暗闇の中で疲れ果て、眠り込んでしまう人間の姿を、主はよく理解しておられます。では、何が五人の「賢い乙女」と五人の「愚かな乙女」を分けたのでしょうか。それは、花婿の到着が遅れ、長い夜が続くことに備えて、予備の油を壺に用意していたかどうかでした。賢い乙女たちは予備の油を持っていましたが、愚かな乙女たちは用意していませんでした。いつ来ても迎えることのできる備えを整えていませんでした。

このたとえにおける油とは一体何でしょうか。油を使って灯していく光。5章14節に「あなたがたは世の光である。16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」という御言葉があります。世の光として歩んでいくための油と考えることもできます。この後に二つの有名な譬え話が続きます。世の光として、賜物をもって神に仕え、隣人に寄り添い仕えていく譬えです。その二つを生み出していく土台。それが神との交わりに生きることです。神に祈り、み言葉に聴き、神との交わりに生きる。この譬え話の油は、他の人から借りて済ませることのできない、一人ひとりの神さまとの生きた関係を表しています。神さまの前に立ち、主イエスを「私の主、私の救い主」と仰いで生きることは、誰かに代わってもらうことはできません。油を備えるとは、神さまに祈り、恵みの御言葉に聴き、ご自身を差し出してくださったキリストとの真実な交わりに生きることです。

私たちが地上の生涯を歩む時、困難を避けることはできません。イエスさまは、ゲッセマネの園で苦しみ、十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。それは、主イエスご自身が、人間の痛み、罪や苦しみ、喪失、そして神の臨在さえ見失われたかのような絶望の暗闇を、私たちに先立って通り、引き受けてくださったことを意味しています。主は、私たちの罪、悲嘆、死の恐怖を、ご自身のものとして背負ってくださいました。その主の十字架と復活によって、私たちにご自身の義と聖さ、そして神の愛する子どもとして生きる特権を、無償で与えてくださったのです。この素晴らしい交換によって、神の愛する子どもとされています。将来完成する神の国の子どもであり、未来に到来するキリストのものです。ただこの世の現実に属するのではなく、再び来られる主のもとにある新しい神の国に属する者です。だからこそ、世界や人生の暗闇に直面しても絶望せず、主の再臨を恐れではなく、「父なる神のもとへ帰る喜び」をもって待ち望み、来るべき神の国を先取りして、神を愛し、隣人を愛して歩んでいくことができるのです。

「わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです」。ヘブライ書6章19節の御言葉です。 荒れ狂う海の嵐の中でも、船が流されないように海底へ錨を下ろすように、人間の魂も人生の困難や不安の中で、神による確かな約束(希望)によってしっかりと支えられる。その希望は、至聖所の垂れ幕の内側に大祭司として、先駆者としてそこに入って行かれたイエス・キリストにあります。私たちの希望は天にある神ご自身としっかり結ばれています。私たちは、イエス・キリストによる神の救いと慰めの物語の中に固く受け止められています。礼拝は私たちの人生の物語がキリストの救いの物語の中に組み入れられていることを知り、決して押し潰されることのない希望へと接続される時です。こうして主の日に共に集い、神の恵みのみ言葉を聴き、祈りを合わせ、十字架と復活の主を仰いでいくとき、私たちの空になっていく心の壺に、新しい恵みの油が豊かに注がれます。神に愛されているものとして、主との生きた関係を取り戻し、心に希望の火がともされます。この神の愛は決して途切れることがありません。新しく始まる週も、主イエスとの真実な交わりに生かされながら、世の光として希望の灯火を高く掲げて歩んでいきたいのです。

 

【4】説教後の祈り

終わりの日に救いを完成するため、再び来てくださる神さま。私たちの罪と悲しみをご自身で引き受け、永遠の命と「神の子」の特権を与えてくださった主イエスの深い愛に、私たち自身を委ねます。来るべき神の国に属する者として主との交わりに立ち、日々の礼拝で恵みの油を注がれながら、遣わされた場所で希望の光を掲げて歩むことができますように。
慈しみ深い神さま。あなたは私たちの祈りを聞き、御心を行ってくださいます。今、希望を見失い、孤独や不安の中にある人々のために祈ります。悲しむ人に慰めを、弱っている人に支えを、苦しみの中にある人に確かな希望をお与えください。正義の神さま。あなたは私たちの目を開き、この世界にある不正や苦しみを示してくださいます。生活に不安を抱える人々、仕事を失った人々、将来への道を見いだせずにいる人々を顧みてください。憐れみの神さま。病の中にある人々、心や体に痛みを抱える人々、そして日々の介護や看病に励む人々を覚えます。どうか豊かな癒やしと力を与え、失われかけた希望を新しくしてください。医療や福祉に携わる人々を支え、その尊い働きを祝福してください。平和の神さま。戦争や暴力、分断と憎しみの絶えない世界を憐れんでください。家を追われた人々、不安の中で暮らす人々、争いの犠牲となっている人々を御手をもって守ってください。世界の指導者たちに知恵を与えて平和と正義の道へと導き、また私たち自身も、平和をつくりだし、あなたの愛を表す者として歩ませてください。
この世界にあなたによって建てられている全ての教会、そして私たちを強め、主イエス・キリストを再臨を希望をもって待ち望み、み言葉によって油を満たされ、あなたに信仰と希望と愛をもって仕え、あなたの光を掲げていくことができるように助けてください。
この時、私たち一人一人が心にかかっている、心身に病、痛みや疲れ、不安を抱えている方々に癒しと希望をお与えください。特に入院している人々、施設にある人々、孤独の中にある人々を守り、お支えくださり、助けてください。日曜学校に連なる生徒たち、そのご家庭を祝福し、導いてください。この礼拝を覚えながら、様々な事情で来ることのできなかった方々を顧みて下さい。ここにおられる全て人々、心に覚えるすべての人々を祝福の内に導いて下さい。今私たちの心の中にある全ての祈りを顧み、憐れんでください。
この祈りを世の終わりまで私たちに近くいまし、共にいてくださる主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

 

 

2026年10月25日礼拝録音

礼拝情報は下記にあります。

【1】礼拝情報

《 前    奏 》

《 神の招き 》

招きの言葉(起立)           詩編119編105節

讃 美 歌(起立)           282

《 罪の告白 》

罪の告白の祈り(起立)    交読詩編 詩編90編

主よ、あわれみを(起立) 21-32(2回)

恵みの言葉(起立)           ローマの信徒への手紙3章21-22節

《 神の言葉 》

聖霊の導きを求める祈り

聖書朗読            申命記6章4-5節 、マタイによる福音書22章34-46節

讃 美 歌(起立)      321

説   教                    「神を愛し、隣人を愛する」

《 感  謝 》

執り成しの祈り

讃 美 歌(起立)           21-475

信仰告白(起立)             使徒信条

奉   献

主の祈り(起立)

《 派 遣と祝福 》

頌   栄(起立)           541

派遣の言葉(起立)

祝   福(起立)

《 後  奏 》

*健康上お立ちになりにくい方は着席のまま礼拝をお守り下さい。

 

【2】聖書朗読

申命記6章4-5節

4 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。
5 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 

マタイによる福音書22章34-46節

34 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。
35 そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
36 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
38 これが最も重要な第一の掟である。
39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
ダビデの子についての問答
41 ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった。
42 「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」彼らが、「ダビデの子です」と言うと、
43 イエスは言われた。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。
44 『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、/わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』
45 このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」
46 これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。 

 

【3】説教

マタイによる福音書では、ファリサイ派やサドカイ派、律法学者たちは、イエスさまに異議を唱える際、あえて「先生」と呼びかけます。しかし、22章だけでも3回登場するこの呼び方は、敬意を示すどころか、イエスさまを論破し、窮地に陥れるための辛辣な武器となっています。イエスさまの伝道活動は、荒れ野で「サタンによる3つの誘惑」を受けることから始まりました。そして、逮捕を目前にした今、再び15節、23節と、次々に問いを突きつけられ、試みを与えられます。最後に、34節でファリサイ派の律法学者がイエスさまを試そうとしたのは、何が「最も重要な戒め」なのかという問いでした。旧約聖書には613もの戒律があるとされ、もしイエスさまがその中の一つを第一とされたなら、「ほかの戒律を二の次にしている」と批判する口実を与えることになります。「神の言葉はすべて尊く、どの戒めも等しく大切です」と答えて、問いをかわすのが最も無難な方法です。しかし、イエスさまはそのように問いを退けるのではなく、聖書に立ち返り、律法全体の中心にある神の御心を明らかにされました。この神の御心こそ、私たちも試みにさらされる時、試練の中にある時、窮地に立たされる時も、私たちを支え、生かし、希望を与えていくのです。

イエスさまは最初に申命記6章4、5節に記されている、ユダヤ人にとって最もよく知られた信仰告白である「シェマ」を引用されました。「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。イエスさまは、律法の専門家たちが当然知っているはずのこの言葉によって、神の律法の中心を示されたのです。心、感情だけでなく、魂、意志、思い、知性のすべてを使って神に向かう姿勢を指します。神さまを自分の存在のすべてをもって、全身全霊をもって、愛し、崇める。しかし、自分自身を振り返る時、心も魂も思いも、すべてを神さまへの愛に向けているとは言えません。神さまを愛しているからこそ、こうして礼拝に集っています。心は神さまだけに向けられているかというと、そうではなく、心を惹かれるものがほかにもたくさんあります。神さまを愛しながらも、心のすべてを神さまに向けきれない。他の何かを崇めてしまう。それが現実です。イエスさまは第二に、「隣人を自分のように愛しなさい」というレビ記19章18節の御言葉をとりあげます。この戒めについても、自分自身の姿を振り返らずにはいられません。隣り人を愛そうとはしていても、いざとなると、自分を優先してしまう。イエスさまは、自分自身を愛してはいけないと言っておられるのではありません。自分自身を愛し、大切にすることも必要です。その上で、同じように、隣り人のことも愛し、大切にしているのかと問われるなら、できていない。隣人を自分のように愛することも、神を愛することにおいても、中途半端にしかできない自分。とうてい救われるはずはない、と暗い気持ちになってきます。

それではどうすればよいのでしょうか。心を尽くして神も隣人も愛することができない自分の無力さを前にするとき、イエスさまは私たちの目をご自分へと向けさせてくださいます。イエスさまは逆に問いを投げかけられました。「あなた方はメシアについてどう思うか。だれの子だろうか」。彼らは「ダビデの子です」と答えました。当時、メシアとはダビデの血筋から出る地上の王を意味していたからです。しかし、イエスさまは詩編110編を引用して尋ねられます。「では、なぜダビデは聖霊に導かれて、メシアを『主』と呼んでいるのか」。人間の常識では、父親や祖先が自分の子孫を「私の主」と呼ぶことはありません。けれども、ダビデはメシアを「主」と呼びました。単なる人間の後継者を超えた、神から遣わされた私たちの「主」だからです。「ズームアウトクイズ」 、 「画像当てクイズ」 と呼ばれるゲームがあります。最初は画像の一部分だけが大きく拡大されていて、少しずつ縮小されて全体が見えてくる。そこで何が描かれているのかを当てます。この仕組みはこの聖書の箇所に重なります。神を愛すること。隣人を自分のように愛すること。それがメシアであり、十字架の死、そして復活に至るまで歩んでくださった救い主イエス・キリストなのです。

今日のイエスさまの御言葉は、十字架の死へと向かう最後の一週間に語られました。神と隣人を愛しきれず、生き悩む私たちを救うために、イエスさまは「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして」私たちを愛し、十字架の道を歩んでくださいました。「善いサマリア人」の話からすれば、追い剥ぎに襲われ、瀕死の状態で倒れている人を、同胞であり、神に仕える祭司やレビ人は見て見ぬふりをして通り過ぎていきます。しかし、ユダヤ人と敵対関係にあったサマリア人だけが寄り添い、責任をもって介抱します。その姿にイエス・キリストを見るのです。イエスさまは生まれつき神と隣人を憎む方へと心が傾く私たちを愛し、救うために、ご自分の命を犠牲にして、敵である私たちの隣人となり、私たちを神の子として、責任を負って下さっています。この主が共にいてくださるからこそ、自分を委ねていくことができます。私たちはこの主と共にある平和の中で、神を崇め、隣人を自分のように尊重し、大切にしていく関係を回復し、育んでいく健やかな命、永遠の命を与えられているのです。

神を愛し、隣人を自分のように愛することは、努力によって救いを完成させたり、神の愛を勝ち取ったりするためではありません。今日は宗教改革記念日の礼拝です。宗教改革者ジャン・カルヴァンは、神さまの恵みへの感謝の応答として、神と隣人を愛する二つの律法を大切にすることを教えました。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ5:8)。神を愛し、隣人を愛する歩みは、神がイエス・キリストにおいて、すでに私たちを無条件に愛してくださっている事実を受け入れることから始まります。聖書にあるように、神が愛であり、私たちが神の中で生き、動き、存在しているのなら、私たちは溢れ出る愛の流れの中にしっかりと根ざし、愛の現れる器とされています。一人一人に神の愛が現れているのです。すべての被造物は、愛に満ちた神がそれを創造し、共にいたいと望んだからこそ存在しているのです。神さまは「あなたがここに存在してくれて嬉しい。あなたがいてくれて良かった」と、私たちの存在そのものを喜んでくださいます。神さまに愛され喜ばれているからこそ、私たちも神さまが愛されている自分を受け入れ、目の前の隣人を尊重し、大切にすることができます。今朝、神に愛されている者として、神を崇め、礼拝することから、自分と隣人を大切にしていく健やかな命に生かされていくことができるように祈りたいと思います。

 

【4】説教後の祈り

天の父なる神様。神と隣人を愛しきれず、生き悩む私たちを救うために、イエスさまは「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして」私たちを愛し、十字架の道を歩んでくださったことを感謝します。神に愛されている者として、神を崇め、礼拝することから、自分と隣人、この世界の被造物を大切にしていく健やかな命に生かされていくことができますように導いてください。

世界を創造し、全てのものを支配し、愛をもって共にいてくださる父なる神さま。どうか、あなたによって造られた全ての命が平和に生きることができますように。この世界に分裂や憎しみ、紛争がある場所に、あなたの平和をもたらしてください。私たちはみな、あなたの形にかたどられた平等な存在として、神と人と共に生きるものとして造られました。すべての指導者や重責を担う人々、そして私たち一人ひとりが、自らの利益を超えて、困難の中にある人々に目を向けることができますように導いてください。互いの違いを超えて共通点を見出し、愛を見出し、共に同じ人間として、神の創造物であるすべての人間に宿る尊厳を認め合うことができますように。あなたが私たちを愛してくださったように、私たちが互いに愛し合うことができるよう、助けてください。

弱さを抱えた人々、孤立している人々、社会の片隅に追いやられている人々、孤独な人、病に倒れている人、困窮の中にある人など、苦しみの中にあるすべての人々に必要な助けと支援が与えられ、慰めと希望が与えられますように。

世界のすべての教会と、私たちの連なる群れを祝してください。何よりもまずあなたを愛するよう私たちの心を強め、周囲の人々に寄り添い、あなたの愛を映し出し、示していくことができるよう導いてください。あなたの御言葉に根差し、あなたの愛を表し、分かち合う灯台となりますように。そのあなたの御言葉に仕えていく教職者を養成していく神学校の働きをあなたの御心のうちに導き、用いてください。その学生と関わる全ての人々を祝福し、お支えください。

今この時、心に顔を思い浮かべる方々の全ての祈りに耳を傾けてください。病気や心身の衰えを覚える方々に癒しと力を、悲しみの中にある方々に慰めと確かな希望をお与えください。この礼拝を覚えながら出席できなかった方々、別の場所で共に礼拝を捧げている方々、そしてここにおられるすべての人々をあなたの愛の中で支え、導いてください。この時、私たちの心の中にある全ての祈りを顧みてくださり、私たちを憐れんでください。

この祈りを世の終わりまで、私たちと共にいてくださる主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン