東京主僕教会の最近の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。なお、礼拝音声は諸事情により、しばらくの間おくことにしていますので、ご了承ください。

2024年4月28日礼拝

 

****礼拝情報は下記にあります****

 

 

《1》礼拝順序

《 前    奏 》
《 神の招き 》
招きの言葉(起立)    ヨハネの手紙一 4章9節
讃 美 歌(起立)    147
《 罪の告白 》
罪の告白の祈り(起立)    交読詩編 詩編130編
主よ、あわれみを(起立)    21-32
恵みの言葉(起立)    ヨハネの手紙一 4章10節
《 神の言葉 》
聖霊の導きを求める祈り
聖書朗読    詩編22編23-32節、 ヨハネによる福音書15章1-8節
讃 美 歌(起立)    21-393
説   教    「まことのぶどうの木」
《 感  謝 》
執り成しの祈り
讃 美 歌(起立)    21-476
信仰告白(起立)    使徒信条
奉   献
主の祈り(起立)
《 派遣と祝福 》
頌   栄(起立)    540
派遣の言葉(起立)
祝   福(起立)
《 後  奏 》

 

《2》聖書朗読

詩編22編23-32節
23わたしは兄弟たちに御名を語り伝え
集会の中であなたを賛美します。
24主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。
ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。
イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ。
25主は貧しい人の苦しみを
決して侮らず、さげすまれません。
御顔を隠すことなく
助けを求める叫びを聞いてくださいます。
26それゆえ、わたしは大いなる集会で
あなたに賛美をささげ
神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。
27貧しい人は食べて満ち足り
主を尋ね求める人は主を賛美します。
いつまでも健やかな命が与えられますように。
28地の果てまで
すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り
国々の民が御前にひれ伏しますように。
29王権は主にあり、主は国々を治められます。
30命に溢れてこの地に住む者はことごとく
主にひれ伏し
塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。
わたしの魂は必ず命を得
31-32子孫は神に仕え
主のことを来るべき代に語り伝え
成し遂げてくださった恵みの御業を
民の末に告げ知らせるでしょう。

ヨハネによる福音書15章1-8節
1「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 2わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。 3わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。 4わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。 5わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。 6わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。 7あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。 8あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。

 

《3》説教

 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」。教会でもよく親しまれてきた主イエスの御言葉は、主イエスが最期の晩餐を弟子達と一緒に終えた後に語られました。イスラエルには昔からブドウ畑があり、ぶどう酒の産地があることで知られていますが、主イエスはこの慣れ親しんでいるぶどう畑を念頭において、これから目に見える姿としては主イエスに出会うことのできなくなる弟子たちに、何が善い時も悪い時も、生きる時も、死ぬ時も、弟子たちを支え、導いていくのかを教えられました。4節から繰り返し、「つながる」という言葉がでてきます。この言葉はもともとのギリシャ語では「とどまる」という言葉と同じです。自分の人生、自分の心を一体何につなげていくのか。主イエスは「私につながっていなさい」と言われます。主イエスに自分をつなげて、主イエスにとどまっていくこと。それが、私たちの人生を支え、生かし、導いていくのです。

 今日の聖書の御言葉を引退したアメリカ合衆国長老教会の神学校の牧会学の先生が、生涯のなかで一番説教個所としてとりあげたことのある御言葉として紹介しています。その先生はイギリスのスコットランド出身でアメリカに渡り、仕えていましたが、故郷が恋しくなり、自分をホームレスのように感じることが多々ありました。しかし、この御言葉によって、自分の家が一体どこにあるのか、自分の居場所がどこにあるのかを教えられ、イエス・キリストの喜びを分かち合うというクライマックスに喜びを感じるのだと書かれています。ヘンリー・ナウエンというカトリック教会の神父は、「ホームレス」という言葉ほど、現代の苦しみを要約している言葉はないと言っています。私たちの最も深い悩み、最も苦しい状態の一つ。それが帰属意識を持てない状態、安全で大切にされ、守られ、愛されていると感じられる場所を持てないことだ、と言っています。しかし、主イエスはそのホームレスと言える時代に生きる私たちに、ヨハネによる福音書において、14章の始まりで、「私の父の家には住む所がたくさんある」と言われ、その主が15章の始まりで、「わたしにつながっていなさい」と言われます。イエス・キリストこそ、私たちの住まいであり、私たちの故郷なのです。

 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と言われた主イエスは、4節で「わたしにつながっていなさい」と言われます。ぶどうの木の枝は、自分で自分をぶどうの木に接ぎ木することはできません。ぶどうの木を育てる人が接ぎ木をされて、はじめてつながります。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」。主イエスにつながるから、主イエスがつながってくださるのではありません。神が私たちを主イエスというぶどうの木に接ぎ木してくださり、つなげてくださっています。主イエスが私たちにつながっていてくださるということは何があっても永遠に変わることのない真理です。「わたしにつながっていなさい」ということは、主イエスというまことのぶどうの木に接ぎ木されている自分として自分を見つめ直していくことです。ご自分のほうから私たちを愛し、死んでくださり、受け入れてくださった主イエスの愛を受け入れていくことです。小さな子供が自分の手を握っている親の手を握り返していくように、つながってくださっている主イエスを信じ、御手を握り返していくことです。主イエスを頼りとして、主イエスを家とし、故郷としていくことです。主イエスにつながれて、主の愛を受け入れ、信じていく時、主の復活の命の恵みを与えられ、生かされ、養われていきます。

 「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」。主イエスから離れてしまうなら、何もできない。実を結ばず、ただ燃やされるだけの枯れていく枝になってしまいます。愛がなければすべては空しいとありますが、主イエスとの結びつきがなければ、主の教えは全て意味がなくなってしまいます。主イエスとの結びつきこそ、主イエスの教えの中心であり、聖書全体を理解していくための中心です。主イエスとのつながり、むすびつきこそ、人生を支えられ、導かれていくための土台なのです。

 私たちが主にとどまり、主がわたしたちにとどまってくださる。そのことをパウロは「主に結ばれている」という言葉で表しています。「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。 20生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」。キリストがわたしのうちに生きておられる。そこまでパウロが言えるのは、ダマスコへの道でパウロに復活された主が現れ、「なぜ私を迫害するのか」と言われ、主イエスに従う者たちを迫害することによって、主イエスご自身を迫害していることに気づいたからだと言うことができます。復活された主イエスが私たちのうちに生きてくださり、私たちと共にいてくださる。これ以上に私たちを最後まで支えていく恵みはありません。嘆きの谷、荒れ野をさまよっていても、そこで自分を取り戻し、主イエスから命の水を受け、「泉のある場所」、生ける水の川にされていきます。神様が私たちをいつも主イエスにつなげ、私たちを守り、手入れして、主に従って歩んでいくものとして導いてくださいます。

 今朝、主イエスにつながれている者として自分を見つめ直したいと思います。主イエスがつながっている私たちの人生にも教会にも生きて働いてくださり、実りをもたらしてくださいます。主イエスが御業を行って、主の愛と命を現して、実りをもたらしてくださいます。神の栄光をたたえ、賛美すること、神を崇め、礼拝することは、その実りの最たるものです。その実りは私たちにも現れています。復活節、イエスの十字架の愛にとどまり、主イエス・キリストにつながっていくことを大事にして歩んでいきたいと思います。このキリストを私たちの住まいとし、故郷とし、とどまっていく。そのことを土台にして歩んでいきたいと思います。

 

《4》説教後の祈り

 復活の主イエス・キリストの父なる神さま。あなたは今朝、わたしたちにまことのぶどうの木であるイエス・キリストにつながれたわたしたち一人一人であることを教えて下さいました。どうか、日々の歩みの中で、このキリストの中に、主の愛の中に自分の住処を見出して歩んで行くことができるように導いて下さい。

 私たちはこの朝、世界の人々のために祈ります。あなたの愛が人生を変え、御子の復活が、あなたが愛するこの世界に希望をもたらし、あなたがどんな困難な時も共に歩んでくださることを信じ、あなたに祈ります。病気や孤独、悲しみ、嘆きと闘っている全ての人々があなたの愛に満たされますように。全ての国や共同体、全ての組織、その人々があなたの愛に満たされますように。正義と平和のために仕えている人々、真実を明らかにするために仕えている人々、経済的な問題に取り組んでいる人々を導き、あなたの愛に満たされますように。心を揺さぶられる出来事に直面している全ての人々を助け、あなたの愛に満たし、希望をお与えください。

 今日と明日、志木北伝道所の教会建設式と柏木教会の牧師就職式が行われますが、どうかそこで仕える牧師、そしてその一つ一つの神の民、群れをあなたが祝福し、ますますあなたの栄光が現わされていきますように祈ります。私たちも全ての教会も主の愛にとどまり、主につながって、主の命の御業に仕え、あなたを崇め賛美し、礼拝する民として形成され、あなたの御業に用いられていくことができますように。
私たち一人一人が心に覚える人々のために祈ります。病の中にある人々、なかなか教会に来ることのできない人々、疲れている人々を守り、癒し、助けてください。家族や友人、知人、旅路のなかにある人々、わたしたちが覚える全ての人々をあなたが守り、支え、導いて下さい。今ここに集っている人々、場所は違っても共に礼拝している方々、教会に連なっている一人一人を顧み、どうか、この週の私たちの歩みがイエス・キリストのぶどうの木の枝として、主の愛に支えられ、主イエスにつながって、あなたのみなをたたえていく歩みとなりますように。

 この祈りをわたしたちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン