東京主僕教会の最近の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。なお、礼拝音声は諸事情により、しばらくの間おくことにしていますので、ご了承ください。

2024年5月5日礼拝

 

****礼拝情報は下記にあります****

《1》礼拝順序

《 前    奏 》
《 神の招き 》
招きの言葉(起立)    ヨハネの手紙一 5章5節
讃 美 歌(起立)    5
《 罪の告白 》
罪の告白の祈り(起立)    交読詩編 詩編98編
主よ、あわれみを(起立)    21-31
恵みの言葉(起立)    イザヤ書44章21-22節
《 神の言葉 》
聖霊の導きを求める祈り
聖書朗読    出エジプト記33章7-11節、 ヨハネによる福音書15章9-17節
讃 美 歌(起立)    21-476
説   教    「友なるイエス
《 感  謝 》
執り成しの祈り
讃 美 歌(起立)    312
信仰告白(起立)    ニカイア信条
聖 餐 式       204
奉   献
主の祈り(起立)
《 派遣と祝福 》
頌   栄(起立)    541
派遣の言葉(起立)
祝   福(起立)
《 後  奏 》

 

《2》聖書朗読

出エジプト記33章7-11節
7モーセは一つの天幕を取って、宿営の外の、宿営から遠く離れた所に張り、それを臨在の幕屋と名付けた。主に伺いを立てる者はだれでも、宿営の外にある臨在の幕屋に行くのであった。 8モーセが幕屋に出て行くときには、民は全員起立し、自分の天幕の入り口に立って、モーセが幕屋に入ってしまうまで見送った。 9モーセが幕屋に入ると、雲の柱が降りて来て幕屋の入り口に立ち、主はモーセと語られた。 10雲の柱が幕屋の入り口に立つのを見ると、民は全員起立し、おのおの自分の天幕の入り口で礼拝した。 11主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。モーセは宿営に戻ったが、彼の従者である若者、ヌンの子ヨシュアは幕屋から離れなかった。

ヨハネによる福音書15章9-17節
 9父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。 10わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
11これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。 12わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。 13友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 14わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。 15もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 16あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。 17互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

 

《3》説教 「友なるイエス


    今日の礼拝の「友なるイエス」という説教題はこの後、讃美歌で歌う312番の「いつくしみふかき」で繰り返される「友なるイエスは」という言葉からつけています。どのような時も変わることなく、主イエスが友になってくださっている。今日のヨハネによる福音書の御言葉によれば、主イエスが14節で「あなたがたはわたしの友である」と言われ、15節で「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と無条件に言ってくださっているからです。讃美歌の312番は、歌詞の1節、心に嘆きがある時、2節、悩みや悲しみがある時、3節、世の友に見捨てられた時に、神さまが、主イエスが私たちのことをどう思い、どのように見てくださっているか、主が友としてくださっていることに支えられてきた人の歌です。主イエスに招かれ、導かれ、主のぶどうの木の枝とされ、主イエスにつながっている。その私たちに、主イエスは無条件に「あなたがたはわたしの友である」と宣言してくださっています。主イエスがいつも友と呼び、友として考え、一緒にいてくださる。この讃美歌によって、多くの人がそのことに慰められ、支えられてきました。

 わたしたちは主イエスの前に自分を見つめる時、自分は不信仰な人間であり、不信心な人間であり、立派なことはしていない人間であり、神さまは自分をそんなに大切に思っていない。だから、自分は主イエスの友ではない。主イエスはもう友とは思ってはおられない。と考えてしまうことがあります。けれども、何があっても、決してそうではありません。そのことは16節の御言葉から明らかです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」。私たちが主イエスを選択し、選んだからではなく、その前に、主イエスがわたしたちを選んでくださった。主イエスが私たちを友として選んで、友と呼んでくださっています。私たちが何かをしたから、主イエスの友となることができたのではありません。私たちが何かをしなかったら友ではないのではありません。何があっても、他の人のように立派には思えない自分であっても、一人一人を、主イエスは、ご自分の大切な友と呼んで下さっているのです。

 15節には「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ」とあります。私たちは神である主イエスと同等の存在ではありません。私たちは主の僕です。しかし、主イエスは私たちのことを、「僕ではなくて友」と呼んでくださっています。僕は、主人の命令に従い、それを忠実に行わなくてはなりません。それがきちんとできないと、僕は非難され、罰を受けます。場合によっては辞めさせられてしまいます。しかし友というのは、主人と僕の関係のように、命令と服従の関係ではありません。愛と信頼に基づいて、喜びを分ち合う関係です。それゆえに、主人は僕には伝えない秘密の大事なこと、父なる神から聞いた神の救いの御計画を弟子たちに伝えられました。

 神様は、私たちを心から愛して、独り子イエス・キリストを遣わして下さいました。主イエスはその父なる神様のみ心を受けて、私たちを心から愛して、私たちの罪を全て背負って、十字架にかかって死んで下さいました。13節には「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とありますが、この御言葉をまさに主イエスが私たちのためにしてくださいました。主イエスは私たちを友と呼び、私たちのためにご自分の命を捨てて、私たちの罪を赦し、ご自分の永遠の命を与えてくださったのです。私たちは礼拝においてこの主イエスの、これ以上に大きなものはない愛をみ言葉によって示され、聖餐によって味わい、この愛に応えて感謝し、賛美し、祈る。主イエスの喜び、父なる神様の独り子としてその愛の中にいる喜びを主イエスによって私たちにも与えられていく。それが私たちが友として招かれている礼拝なのです。

 主イエスは友として招いてくださっている私たちに、主の愛を受けた者として、その主のみ心に応えて、主の愛に生きる、互いに愛し合っていくように招かれています。友は、互いの間の愛と信頼のなかで、相手の思い、考え、意図を汲み取り、相手の願っていることをします。主イエスのこの上ない愛を受け、友と呼ばれている私たちは、命令としてではなく、主イエスのみ心を汲み取り、愛に生きるように招かれています。しかし、「互いに愛し合いなさい」とは難しいことにも思えます。「命を捨てる」の「捨てる」という言葉は「置く」、「差し出す」という意味があります。主イエスの友として、自分自身、自分の心を神と人の傍らに差し出し、置いて、寄り添っていくという仕方が見えてきます。そして何よりも「わたしの名によって父に願う」とあるように、互いに祈りをもって仕えていくことから始まるのです。そのことから愛に生きることが始まります。自分も主イエスが愛されたように、人を迎え入れ、この世界で人を友に変えていく働きに仕える者とされています。この世界になお働いている罪と悪、死の力に抵抗していく生き方。それが、神の友、主イエスの友として歩んでいく生き方です。私たちが出かけて行って結ぶ実とは、互いに愛し合うという実りであり、その祈りを主が御自分の祈りとして祈り、私たちにそれぞれの仕方で実らせてくださいます。

 今朝どんな時も、いつも一人一人、主イエスに愛され、主イエスの友とされ、主イエスの祈りの中にある。そのことを忘れないで歩んでいきたいと思います。

 

《4》説教後の祈り

 主イエス・キリストの父なる神さま。復活された主は今私たちと共にいてくださり、揺るぎない愛をもって、私たちを友として選び、復活の命をもって支え、導いてくださることを感謝します。どうか、日々、復活された主を友として、一緒に歩み、与えられている豊かな命に生きることができますように導いてください。

 父なる神さま。この世界を覆っているあなたの愛の力は私たちの理解を越え、あなたの憐れみの広さは測り知ることができませんが、この地上に愛の現れるところ、そこにあなたの人を神の友としていく働きがあることを信じ、あなたに感謝して祈ります。どうか、この世界の全ての人々が互いにあなたの愛をもって仕え合うことができますように祈ります。この大変な時、孤独の中にあると感じている人々、病気や心身の痛みを抱えている人々、ストレスを抱え働いている人々、ストレスの中にある家族、人間関係で傷ついている人々を癒し、助けてください。食べ物や家や仕事を求める人々、差別や暴力にさらされている人々、窮地の中にある人々を助けてください。世界の全ての為政者、日本の為政者をあなたの愛と正義によって導いてください。

 この復活節、世界の教会の神の民、そして私たちも、主イエス・キリストによるあなたの愛を証しし、あなたの愛をもって、主の友として、あなたと隣人に仕えていくことができますように。

 この時、顔を思い浮かべる、病気や心身の衰えを覚える人々のために祈ります。どうか、復活の主が訪ね、出会ってくださり、癒してくださり、あなたの愛によって平安と希望をお与えください。この礼拝を覚えながら、出席できない方々、ここにおられる方々、場所は違っても共に礼拝されている方々、心に覚える全ての人々を祝福し、心身を守り、支えてください。この時、私たちの心の中にある全ての祈りを顧みてくださり、どうか憐れんでください。この祈りを世の終わりまで私たちと共にいてくださる主イエス・キリストの御名によって祈ります。     アーメン