東京主僕教会の最近の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。なお、礼拝音声は諸事情により、しばらくの間おくことにしていますので、ご了承ください。

2024年4月21日礼拝

 

****礼拝情報は下記にあります****

 

 

【1】礼拝順序

 

   

神の招き

招きの言葉(起立)           ペトロの手紙一 2章25節

讃 美 歌(起立)           146

罪の告白

罪の告白の祈り(起立)    交読詩編 詩編23編

主よ、あわれみを(起立) 21-31

恵みの言葉(起立)           ヨハネによる福音書3章16節

神の言葉

聖霊の導きを求める祈り

聖書朗読            ヨハネによる福音書10章11-18節、 使徒言行録4章5-12節

讃 美 歌(起立)      21-120

説   教                    「良い羊飼い」

感  謝

執り成しの祈り

讃 美 歌(起立)           354

信仰告白(起立)             使徒信条

奉   献

主の祈り(起立)

派遣と祝福

頌   栄(起立)           539

派遣の言葉(起立)

祝   福(起立)

後  奏

 

【2】聖書朗読

ヨハネによる福音書10章11-18節
 11わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。 12羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。―― 13彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。 14わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。 15それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。 16わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。 17わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。 18だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

使徒言行録4章5-12節
5次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。 6大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。 7そして、使徒たちを真ん中に立たせて、「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問した。 8そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。「民の議員、また長老の方々、 9今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、 10あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。 11この方こそ、
『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、
隅の親石となった石』
です。 12ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」

 

【3】説教

 教会ではイースターの日曜日から、ペンテコステの日曜日までの50日間を「復活節」と言います。聖書の御言葉を通して、復活された主イエス・キリストに出会い、その死の力の勝利した命の恵みにあずかっていく時です。ヨハネによる福音書の御言葉によれば、復活された主は私たちの良き羊飼いであり、私たち一人一人は主イエスの羊であります。先ほど歌った讃美歌21の120番は詩編23編の御言葉がほぼそのまま歌詞にされています。詩編23編は詩編の中の詩編とも呼ばれ、特に親しまれ覚えられてきた詩編です。この讃美歌は外国の教会でも葬儀でよく歌われているということで、主が羊飼いであることを歌っている詩編23編が多くの人々に愛され、その人生を支え、導いてきたことを表しています。

 私たちの人生の歩みが主の守りと導きの中にあり、主の御言葉によっていつも魂を生き返らせられ、たとえ「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」と感謝し、生涯にわたって主の恵みと慈しみを与えられ、覆われている。最後には主の家に住まう、そのことを希望をもって歌っています。この良き羊飼いの守りと導きを、主イエス御自身が念頭において教えてくださっているのが、今日のヨハネによる福音書の御言葉です。

 「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。解説によると、パレスチナの羊飼いには、「良い羊飼い」もいれば、今日の御言葉に「雇い人」とあるように、悪い羊飼いもいました。羊飼いとしての最終的な試金石は、羊を命がけで守ることができるか、羊のために命を捨てることができるか、ということでした。他の福音書には迷子の羊を捜し出す羊飼いの譬えがありますが、羊は放っておくと、あてもなくさまよい歩いてしまいます。いつのまにか危険で死と隣り合わせの厄介な場所に身を置くことがあります。その一匹の羊のために、羊飼いが自分の命を犠牲にしてまで、深くて危険な谷に入るという決断は、簡単なことではありません。まさに「死の陰の谷」の中にとどまることには危険が伴うのです。

 今日のヨハネによる福音書の御言葉との関係してくる詩編23編の御言葉で学びを与えられたことがあります。このさまよい歩く羊と重ね合わせて歌われている5節の御言葉です。「わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる」。古代の砂漠の文化では、人が殺人など、重大な犯罪を犯し、反対に、復讐によって自分の命が危険にさらされると、無人の砂漠に逃げ込むことがありました。血の復讐の掟と言われていますが、復讐する者は容赦なく彼を探し求め、見つけ出し、追いつめていきます。しかし、罪によって呪われ、復讐の掟によって追いつめられたこの人にとって、逃げるしかない厳しい砂漠の中で、一つの逃れ場所がありました。それが砂漠のもてなしの掟であり、砂漠をさ迷う者は、その性格や過去がどうであれ、「神の客人」として羊飼いの天幕に迎えられ、食事を与えられ、厳重に守られるしきたりでした。羊飼いの主人にとって、逃亡者も、逃亡者を追い詰める敵も、全く無害な人物ではありません。けれども、羊飼いの主人は逃げ込んできた人を安全に命がけで守ることに責任を負ったのです。「わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる」。この言葉は自分を命がけで迎え入れ、守ってくれる羊飼いの主人に対する逃亡者の言葉でもあります。自分の過去に脅かされ、血の復讐の呪いに脅かされている人が、羊飼いの天幕に迎えられ、守られ、食卓に座らせられて、食事を振舞われる。頭に油を注がれ、杯を満たされる。羊飼いの天幕の中でのみ、彼は平安を得て、安全に過ごすことができるのです。

 当時の人々にとって「良い羊飼いである」ということは、獣や強盗や重い罪を犯した人や追い詰める人に対して、命の危険を冒し、そのために命を捧げることを意味しています。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。主イエス詩編23編の御言葉のように、まさに神からさ迷っている罪人である私たちのために、命の危険を犯し、私たちに代わって苦しみ、ご自分の命を捨てて、私たちを苦しめる罪と死との戦いに勝利してくださいました。そして罪の赦しと神と共にある新しい命、永遠の命を与えて下さったのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。私たちを愛し、ご自分の命を捨てて、命がけで守り、導いてくださる復活の主が、どこまでも共にいてくださるからこそ、「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない」と勇気を出すことができます。死の力に勝利して私たちのためにどこまでも命がけで守り、導いてくださるからこそ、神の愛が勝利する、私たちに対する神の導きと神の恵みが勝利する、ということができます。十字架と復活によってそのことは揺らぐことがない事実であることが示されています。だから、「命のある限り」、何があっても、主の家に帰るまで、「恵みと慈しみはいつもわたしを追う」ということができるのです。

 「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」。復活の主は良い羊飼いのように私たちを知っていて、その名前を呼んでくださる神です。イザヤ書43章1節にこのようにあります。「1ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」。神が私たちのことを全てご存じであり、私たちの名を呼ばれるのは、私たちが神のものであり、神の御手に刻まれているからです。イザヤ書49章15節と16節にこうあります。「わたしがあなたを忘れることは決してない。16見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける」。私たちは神のものであり、神の御手に刻まれているのだから、神は私たちを忘れることができない。私たちのことを全てご存じであり、いつも私たちの名を読んで招いてくださっているのです。

 この復活された主が、今もこれからも詩編23編にあるように、「わたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、3魂を生き返らせてくださる」、このように歩んでいく道を備えてくださっています。私たちと共にいて守り、導いてくださる良い羊飼いである。この復活の主に希望があります。この主に従って歩んでいきたいと思います。

 

【4】説教後の祈り

 わたしたちのために命を捨て、十字架で死んでくださった御子イエス・キリストの父なる神さま。この時、私たちは混乱と不安の中にありますが、どうか、良き羊飼いである御子イエス・キリストのものとされている羊であることを信じ、主の導きに希望をもって、主の愛を示していく器とされていくことができますように。

 あなたは、この世界の全ての人々を愛し、共にいてくださいます。私たちはこの世界の様々な死の陰の谷を歩んでいる人々のために祈ります。不安の中にある人々に平安を、疲れの中にある人々に休息を、試練の中にある人々に助けを与えてください。経済的な困難に直面している人々、生きづらさを感じている人々、様々な重い病に苦しむ人々、悲しみの中にある人々と共にいてくださり、助けてください。戦争や暴力、差別、抑圧に直面している人々、危険や死に直面している人々を助け、平和を与え、安心して暮らすことができますように導いてください。どうか、あなたの知恵と真理をこの世界に満たし、全ての指導者をあなたの御心のうちに導いてください。

 どうか、全ての教会と私たちを支え、羊飼いである主の恵みによって一つとなって、あなたの宣教の御業のために仕えていくことができますように。

 この時、顔を思い浮かべる、病気や心身の衰を覚える人々のために祈ります。どうか、復活の主が訪ね、出会ってくださり、主が共にいてくださる希望を与え、癒してください。特に新しい歩みを迎えている全ての人々を祝福し、支えてください。この礼拝を覚えながら、出席できない方々、ここにおられる全ての人々を祝福し、心身を守り、支えてください。この時、私たちの心の中にある全ての祈りを顧みてくださり、どうか憐れんでください。

 この祈りを世の終わりまで私たちと共にいてくださる主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン