東京主僕教会の最近の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。なお、礼拝音声は諸事情により、しばらくの間おくことにしていますので、ご了承ください。

2024年4月7日礼拝

 

****礼拝情報は下記にあります****

【1】礼拝順序

 

《 前    奏 》
《 神の招き 》
招きの言葉(起立)    詩編133編1節
讃 美 歌(起立)    21-320
《 罪の告白 》
罪の告白の祈り(起立)    交読詩編 詩編130編
主よ、あわれみを(起立)    21-31
恵みの言葉(起立)    ヨハネの手紙一 1章9節
《 神の言葉 》
聖霊の導きを求める祈り
聖書朗読    創世記2章6-9節、 ヨハネによる福音書20章19-31節
讃 美 歌(起立)    156(上)
説   教    「見ないのに信じる人の幸い」
《 感  謝 》
執り成しの祈り
讃 美 歌(起立)    151
信仰告白(起立)    ニカイア信条
聖 餐 式    205
奉   献
主の祈り(起立)
《 派遣と祝福 》
頌   栄(起立)    21-26
派遣の言葉(起立)
祝   福(起立)
《 後  奏 》

 

【2】聖書朗読

◇創世記2章6-9節
6しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。 7主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。 8主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。 9主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。

ヨハネによる福音書20章19-31節
19その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 20そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 21イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 22そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 23だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。 25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
30このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。 31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

 

【3】説教

 台湾で大きな地震が起こり、日本キリスト教会でもこれから台湾地震被災者支援募金が行われることになっています。被災した方々に必要な助けと支えが与えられ、生活が早く回復されることを祈ります。この時代、災害や疫病などを始めとして、多くの人々が様々なことで心身に痛みや病を抱え、傷ついている時代だと言われます。だれもが人生の歩みの中で消えることのない痛みを経験し、その傷を抱えたまま生きています。教会はこの時代に何を福音の喜びとして伝え、何を希望として指し示していくことができるのでしょうか。

 今日のヨハネによる福音書には復活した主イエス御自身も、復活した主イエスに出会った弟子たちも一人一人深い傷を抱えている人々であることに気づきます。最初のイースターの夕方、弟子たちはある家の部屋に集まっていました。その家の門を閉め、鍵をかけていました。弟子たちは主イエスにすべてを捨てて従ってきました。一週間前、弟子たちは主イエスが王となり、支配者となるかもしれない、非常に大きな希望を持って、エルサレムの町に入っていきました。けれども、主イエスは目の前で捕らえられ、裁判にかけられてしまいます。その時、弟子たちは、最後の最後で主イエスを裏切って、逃げてしまいます。弟子達にも見捨てられた主イエスはその後、聖書で最も呪われていると言われている十字架につけられ、殺されてしまいます。大きなトラウマを経験しているのです。今経験していることは、まさに悪夢、災難としか言いようがない。そして、今度は主イエスに従ってきた自分たちも、捕らえられ、殺されてしまう可能性がある。弟子たちは主を裏切って、見捨ててしまった。心に一生消すことのできない深い傷を抱えたまま、不安の中で、家の戸に鍵をかけていたのです。けれども、その傷を抱えた弟子たちは、傷のある主イエスの復活と出会った時、喜びに包まれたのです。

 しかし、どうして、主イエスは傷のある体をもって復活されたのでしょうか。主イエスは復活して、何もかも回復されたのだから、傷のない体でもよかったのではないかと思えます。山上でイエス様の姿が真っ白に光輝いたという出来事のように、復活をした、その姿も美しい姿で現われて、神はすばらしいことを成し遂げられたと伝えられてもよかったのではないでしょうか。しかし、弟子たちの前に現われた主イエスは、「あなたがたに平和があるように」と言って、十字架で釘を打たれた大変な傷跡の残っている手と脇腹をお見せになりました。それは一週間後、トマスに現れた主イエスの両手、脇腹にも変わらずにありました。

 最初に一緒にいなかったトマスの心の傷はより一層深いものでした。11章でラザロが死んで、主イエスが向かおうとした時、危険を察知して、私も一緒に行って死のうではないか、と勇敢に言ったトマスです。しかしあれほど強く言ったのに主イエスを裏切って、見捨ててしまった。その主イエスが死んでしまった。頼りにできるものは何もない。最終的な真理は主イエスの死、死の事実。しかも主が復活したとみなが騒いで自分だけが主を見ていない。自分だけが仲間外れ。人への不信、疑いが大きくなり、孤独感が増しています。

 復活して弟子たちに現れた主イエスは弟子たちにもトマスにも、十字架につけられた姿のまま、弟子たちの前に現われました。何か、神々しい、完全な体、美しい姿をした主イエスではありませんでした。むしろ、反対に、できれば、弟子たちが見たくない、目を背けたい傷跡が、主イエスの両手にあり、脇腹にあったのです。しかし、それがまさに、キリストがキリストであることの印でありました。私たちの罪、私たちの傷、私たちの病、痛み。その全てをおっておられる復活の主が、傷ついた自らの御手をもって、ペトロやトマスの心に優しく触れ、癒してくださいました。罪を赦し、ご自分との交わり、関係を回復して、ご自分の死に勝利して神に共に生きる新しい命を与えてくださいました。心身に深い傷を負っている。けれども、この時代に生きている全ての人に与えられている救いがあり、癒しがあるのです。

 この主イエスの姿はイザヤ書53章4~5節の御言葉と重なります。「4彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。5彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」。ヘンリー・ナウエンというカトリック教会の神父はこの主の姿を「傷ついた癒し人」と言いました。主の傷は私たちの傷であり、痛みであり、病であり、罪を示すものです。私たちは自分の罪、自分の痛みや傷、病を通して、その全てを負って十字架で死なれ、復活された主の傷を見て、この主に癒されます。罪を赦され、受け入れられ、新しい命を与えられている。深い傷を負いながら、傷ついた癒し人である主が共にいてくださることに慰めと希望があります。

 教会はこの傷ついたキリストの体です。教会はこの主の傷の中で生まれました。この傷に包まれ、支えられ、生かされています。そして悩みの時にはこの傷に立ち返り、癒されます。私たちの全ての痛み、全ての傷。その全てが十字架の主に担われ、罪の赦しと新しい命を与えられます。この時代に全ての人に神とのつながりを与えるのは主の十字架であり、主の十字架の傷なのです。弱さの内に神様が働いてくださいます。傷を抱えたものをそのままで受け入れ、赦し、新しい命に生かし、慰めと喜びのうちに新しい歩みを始めさせる復活の主の福音があります。この傷ついた復活の主に癒されながら、主の憐れみの御業に仕えていきたいと思います。

 

【4】説教後の祈り

 御子イエス・キリストの父なる神さま。復活された主イエスはこの朝、私たちに出会ってくださり、私たちを信じない者から信じるものへ、見ないのに信じるものへ変えてくださり、主の命の御手によって支え、包んでくださっていることを感謝します。どうか、この主に自分を委ねて、希望をもって歩むことができますように。

復活した主イエス・キリストが弟子たちに平和を与えたように、この世界の人々に平和を与えるために今も生きて働いておられます。台湾での地震で被災した人々を助け、支援活動をする人々を支えてください。様々な恐れや困難に立ち向かう人々にあなたによる解決を与え、平和と勇気を与えてください。先が見えない困難の中にある人々を支え、平和をお与えください。全ての戦争に終わりをもたらし、苦しむ人々を解放し、平和をお与えください。全ての被造物が平和の中で過ごすことができますように導いてください。4月から新しい生活を迎えている方々を支え、祝福してください。この復活節、全ての教会に、聖霊によって、あなたの命を満たし、希望の福音を証ししていくことができますように。

 私たちはこの時、心に顔を思い浮かべる方々のために祈ります。心と体に痛みをもつ方々、体の弱さを覚える人々にあなたの癒しを与え、平和をお与え下さい。この礼拝を覚えながら、様々な事情で来ることのできなかった方々を祝福し、顧みて下さい。今ここにおられる人々、場所は違っても共に礼拝する人々、心に覚えるすべての人々を祝福の内に導いて下さい。今私たちの心の中にある全ての祈りを顧み、憐れんでください。この祈りを世の終わりまで私たちに近くいまし、共にいてくださる主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン