東京主僕教会の最近の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。なお、礼拝音声は諸事情により、しばらくの間おくことにしていますので、ご了承ください。

2024年3月31日復活祭礼拝

 

****礼拝情報は下記にあります****

【1】礼拝順序

《 前    奏 》
《 神の招き 》
招きの言葉(起立)    詩編118編22-25節
讃 美 歌(起立)    148(1、2)
《 罪の告白 》
罪の告白の祈り(起立)    交読詩編 詩編32編
主よ、あわれみを(起立)    21-32
恵みの言葉(起立)    ローマの信徒への手紙4章24-25節
《 神の言葉 》
聖霊の導きを求める祈り
聖書朗読    イザヤ書25章6-10節、ヨハネによる福音書20章11-18節

讃 美 歌(起立)    151(1、4)
説   教    「なぜ、泣いているのか」
《 感  謝 》
執り成しの祈り
讃 美 歌(起立)    154(1、3)
信仰告白(起立)    使徒信条
聖 餐 式    21-81(1、2)
奉   献
主の祈り(起立)
《 派遣と祝福 》
頌   栄(起立)    21-25
派遣の言葉(起立)
祝   福(起立)
《 後  奏 》

 

【2】聖書朗読

イザヤ書25章6-10節
6万軍の主はこの山で祝宴を開き
すべての民に良い肉と古い酒を供される。
それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。
7主はこの山で
すべての民の顔を包んでいた布と
すべての国を覆っていた布を滅ぼし
8死を永久に滅ぼしてくださる。
主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい
御自分の民の恥を
地上からぬぐい去ってくださる。
これは主が語られたことである。
9その日には、人は言う。
見よ、この方こそわたしたちの神。
わたしたちは待ち望んでいた。
この方がわたしたちを救ってくださる。
この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。
その救いを祝って喜び躍ろう。
10主の御手はこの山の上にとどまる。

ヨハネによる福音書20章11-18節
11マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、 12イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。 13天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」 14こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。 15イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」 16イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。 17イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」 18マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

 

【3】説教 「なぜ、泣いているのか」

 イースターは主イエス・キリストが死の力に勝利して復活されたことを祝うお祭りです。死は全ての終わりではなくなりました。何があっても全ての終わりではないがゆえに大きな希望があるのです。マリアが復活された主に出会い、新しく生かされていく物語は私たちの人生におこっている復活の主との出会いの物語でもあります。復活された主に最初に出会ったのはマグダラのマリアでした。このマリアは、主イエスの母マリアとは別の女性です。このマリアはかつて七つの霊に取りつかれており、それを主イエスによって追い出していただきました。自分を救ってくれた主イエスに信頼を寄せる彼女にとって、主イエスの死は絶望そのものでした。拠り所としていたお方が突然目の前からいなくなってしまったのです。この先一体どのように生きたらよいのか、この闇が一生続くのではないか、それほどの絶望が襲いました。人間の歴史、被造物の歴史は命から死への物語です。死から命への物語が始まった。それが主イエスの復活の物語です。しかし、死から命への物語が始まっていることを人間は自分では気づくことができません。マリアがそのことに気づいたのは神の言葉、神の御言葉による語りかけに聞くことから始まったのです。神の言葉の語りかけは聖霊によって私たちにも起こっているのです。
 この悲しみを抱えながら、マリアは週の初めの日、日曜の朝早く、闇のなかで主イエスが葬られている墓に赴きました。しかしそこで、墓をふさいでいた石がとりのけられ、中がからっぽであることを知ると、どうすることもできず、ただ泣くしかありません。その時、主イエスの遺体の置いてあった場所に、白い衣を着た二人の天使が見えました。「婦人よ、なぜ泣いているのか」。泣かないでよい理由があることを知らせようとするのです。けれども、マリアはその問いの意味が分かりません。そのマリアに今度は主イエス御自身が近づいて来ておられるのです。
 マリアが復活された主イエスと出会う物語は、私たちの人生にも起こっている物語です。マリアは、墓のそばに泣きながら立ち尽くしていました。しかし、振り返ると、そこに復活の主イエスがいてくださいました。けれどもマリアの目は、悲しみの涙で曇っていて、主イエスを見ることができません。しかし、たとえマリアが気付いていなくても、主イエスは、確かにそこにおられます。立ち止まって泣いているマリアをずっと見ていてくださったのです。復活された主は私たちと共にいてくださいます。復活された主だと気づくことができなくても、振り返ると、復活の主は共にいてくださるのです。マリアがそこにおられるのが主イエスだとわかったのは、16節で「マリア」と呼ばれて、再び振り返った時でした。イエス・キリストは、私たちを十把一絡げに呼ばれません。私たちの名前をみんな知っておられ、かけがえのない人格として、名前で呼ばれるのです。ヨハネ福音書10章には、こう記されています。「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」「羊はその声を知っているので、付いて行く。」私たちも一人一人、今朝、復活された主イエスに名前を呼ばれているのです。
 復活された主イエスは私たちも目で見て、触ることはできません。もし、目で見て触ることができるならば、マリアのように、主イエスに嬉しさのあまり、すがりたいと思うのではないでしょうか。けれども、主イエスは「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われます。主イエスはなぜそんなことをマリアに言われたのでしょうか。マリアの目の前にいる主イエスは確かに摑めば、摑むことができる体をもっています。けれども、やがて、この見える姿においては目の前からいなくなるのです。目に見えるものにすがる以上の確かな恵みがあるのです。
 主イエスにはまだしなければならないことがありました。主の救いの物語は終わっていません。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』」。わたしの父である神は、あなたがたの父でもあり、あなたがたの神でもある。主イエスの十字架の死と復活によってこの救いが実現しました。神に背き、神に見捨てられも仕方がない罪人である私たちが、主イエスの十字架の死と復活によって罪を赦され、主イエスと共に永遠の命にあずかる神の子とされました。主イエスが父なる神のもとに上って下さり、主イエスから聖霊が遣わされることによって、その救いが確かなものとなります。
 主イエスがここで弟子たちを「わたしの兄弟」と呼んで下さったように、主イエス・キリストが私たちを捉え、主イエスの兄弟として、神の子として生きるものとしてくださいます。目で見て触ることができなくても、主がどんな時も共にいてくださり、私の兄弟と呼び、神の子として捉え、新しい命に生かし、導いてくださいます。2月に召された方が50年史に感謝と喜びをもってだから奉仕しましょう、と書かれていたのは、自分の人生がこの救いの歴史、物語に連なり、一部とされていることでした。私たちの人生も復活の主に出会って新しく始まる物語に連なっているのです。
 ヨハネによる福音書に「振り返る」という言葉が二度もでてきます。「振り返る」という言葉は、体の向きを変えるというだけではなく、もっと深い意味を持っています。他の福音書では「心を入れ替える」とか「悔い改める」と訳される言葉です。マリアは、単に体の向きだけではなくて、泣いていたその「心の向き」を主イエスにかえていく時、主にとらえられ、主の恵みと命を証しする、神の子としての新しい歩みが始まりました。私たちも復活された主に心を向けることから新しい歩みが始まるのです。

 

【4】説教後の祈り

 私たちのためにイエス・キリストを復活させてくださった父なる神さま。あなたはこの朝、礼拝を通して復活の主に出会わせてくださっていることを感謝します。どうか、これからの歩みにおいて、復活の命の光に照らされて、希望のうちに勇気をもって、主と共に歩んでいくことができますように。
 御子イエス・キリストは罪と死の力に勝利して復活して、この世界に共にいてくださり、あなたの永遠の愛のうちにおいてくださいます。どうか、世界と全ての国の政府と地域の指導者をあなたの知恵によって導き、正義と平和を実現してください。あなたによって造られたこの世界の全ての命あるものが愛と平和のうちに生きることができますように。病める人々、死に直面している人々、そのために仕えている人々に癒しと助けと平安をお与えください。希望のない人々、嘆き悲しむ人々にあなたの光と恵みによって助けてください。どうか、苦しむ全ての人に御子が出会ってくださり、復活の恵みにより新たにして、力をお与えください。
 この復活節、教会が御子イエス・キリストが私たち教会の喜びであり、命であり、希望の源であることを深く覚えていくことができますように。今日の午後、教会墓地で執り行う埋葬式の上に主の復活による慰めと希望を一人一人にお与えください。
 この時、心に顔を思い浮かべることのできる方々、心と体に痛みをもち、病の中にある方々に、あなたの癒しと力と希望をお与えください。この礼拝を覚えながら、様々な事情で来ることのできなかった方々、今ここにいるお一人一人、場所が違っても一緒に礼拝されている方々、心に覚える人々をかえりみ、今日から始まる日々を祝福し、導いてください。この時、私たちの心の中にある全ての祈りを顧みてくださり、どうか憐れんでください。
 この祈りを世の終わりまで私たちと共にいてくださる主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン