東京主僕教会の最近一か月の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。

2017年9月17日主日礼拝説教

「赦さない僕」マタイ18・21-35           

 

 先日、本屋さんを覗いてみると、2013年にドラマで「倍返し」というセリフを流行らせて大ブームとなった「半沢直樹」のシリーズの第四巻が発売されたことを知りました。今もこのドラマの人気にあることを思わせられました。

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2017年9月10日主日礼拝説教要約

「小さな者を愛される神」マタイ18・10-14

 

 讃美歌21の200番の「小さいひつじが」は日曜学校で昔から歌われてきた讃美歌ですが、よく覚えている方も多いと思います。子供の時、迷子になったり、独りぼっちになったことがあり、その時のことをよく覚えている、という方も多いと思います。その話を覚えているのは、それだけ、親とはぐれて迷子になってしまうこと、知らない場所で一人ぼっちに孤独になってしまうこと、それは自分にとって耐えがたい恐怖の体験だったからに違いありません。だからそこに重ねて、この話を覚えているのだと思います。この讃美歌も迷子になってしまうことの怖さをよくわかっているからこそ、その経験に重ね合わせ、この歌が心に残ってきたのではないでしょうか。

 しかし、どうして羊飼いは99匹を残して一匹を探しにいくのでしょうか。まだ迷っていない99匹と迷ってしまった一匹のどちらを取るか、と問われるならば、能率の点から言えば、一匹の羊を見つけ出す可能性と、一時であるとしても99匹を羊飼いのいない危険にさらすことを秤にかけて、99匹の方を取るのがこの世の中の考え方です。業績という点からすれば、いなくなってしまう羊よりも99匹を選びます。この世界は1を切り捨てて99を追い求めていく世界なのです。企業も人間も業績や能率によって評価され、それが人間の価値を定めていく客観的な尺度となっている時代です。そのような能率主義、業績主義に囲まれて、いつの間にか、一人の人の他に代えがたい価値が失われ、生きる意味を喪失してしまう時があるのです。

 しかし、この羊飼いは当然のように99匹を残して、迷った一匹の羊を探しに行きました。この譬え話のポイントは14節「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」という言葉です。この一匹の小さな羊が豊かな命を得て救われることをどこまでも羊飼いは望んでいます。羊飼いはその羊をそのままで愛し、祝福し、その存在を喜ぶのです。それほどまでに一匹の羊の価値は羊飼いにとって大きく、他に代えがたい羊なのです。その理由は、ひとえに、ただ、この迷い出した一匹の羊が、羊飼いのものであり、羊飼いにとってかけがえのない大事な宝のような羊である、ということにしかありません。

 私たち一人一人も神さまのものであり、神さまにとってかけがえのない愛する子供です。だからこそ、私たちが失われ滅びるのではなく、豊かな命を得て生きるために、神さまは大事な一人子であるイエス様を羊飼いとして私たちのもとに送って下さいました。

 自分はいったい何者なのか、自分に価値はあるのか、生きる意味はあるのか。そのように問いながら生きる私たちが、今ここでこれからを希望をもって生きていくことを始めていくために、自分が神さまのかけがえのない子供であり、イエス様に探し出され、見つけ出され、背負われている羊であり、神さまに愛され、祝福されている存在である、そのことを受け入れていくことが必要です。

 一人一人が神さまに愛され、探し出され、背負われている羊であり、互いにそのような羊として受け入れ、大事にして、仕えていく。それが私たちの教会の歩みなのです。

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2017年9月10日主日礼拝説教

「小さな者を愛される神」マタイ18・10-14        2017.9.10

 

 今讃美歌21の200番「ちいさいひつじが」を歌いました。この歌を始めて歌った方もおられるかもしれません。歌ったことがあるという方もおられると思います。この讃美歌はもともと「こどもさんびか」にある歌で日曜学校では昔から歌われてきた歌だからです。私も日曜学校の礼拝で聞いた話は覚えていなくても、この讃美歌は覚えています。何度も歌い、心に染み込み、歌詞もなんとなく覚えています。この讃美歌に歌われているのは、迷子になって、途方に暮れ、泣いている羊を探し出し、連れ帰ってくれる羊飼いの姿です。

 子供の時、迷子になったり、独りぼっちになったことがあり、その時のことをよく覚えている、という方も多いと思います。私は小さい頃よく父親から「涙の泉ちゃん」と言われました。小さい時、忸怩たる思いでその言葉を聞いていたのです。そのように呼ばれた理由は分かりませんが、とにかく、よく泣いていたようなのです。私は三人兄弟の末っ子ですが、赤ん坊の頃にいた福岡で、いきさつはよく分かりませんが、私一人が家に置かれて皆が出かける、ということがあったようです。その時、私がワンワン泣いて、隣の人がその泣き声を聞きつけて心配して様子を見に来る。そして帰ってきた親が隣の人に叱られるということがあったようです。その話を覚えているのは、それだけ、親とはぐれて迷子になってしまうこと、一人ぼっちに孤独になってしまうこと、それは自分にとって耐えがたい恐怖の体験だったからに違いありません。だからそこに重ねて、この羊の話を覚えているのだと思います。

 この讃美歌も迷子になってしまうことの怖さをよくわかっているから、この歌が心に残ってきたのです。迷子になった自分を探し出して、背負って、家に連れ戻してくれる羊飼いがいつも一緒にいてくれる。それがイエス様。そのことをこの讃美歌は子供たちの心に刻み付けてきました。

 この羊飼いのお話はルカによる福音書15章にも出てきます。ルカによる福音書15章のお話のほうがよく読まれるかもしれません。138ページにあるルカによる福音書15章4節から6節でこのように言われています。 「4 あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。5 そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、6 家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう」。この迷い出た羊のたとえの大きな話の筋は同じです。百匹の羊をもっている人がいる。その中の一匹が迷い出ていなくなってしまう。そして99匹を野原に、あるいは山に残して、迷い出た一匹を探しに行くのです。そして、その一匹を探し出し、連れて帰ります。

 マタイによる福音書でもルカによる福音書でも共通している大きなことは、羊飼いが99匹を残して一匹を探しにいくということです。もし、学校で先生が出席をとっている時、一人の生徒が朝来なくて、心配になってそのまますぐに他の生徒たちを残して、その一人の生徒を探しに行ったら、大変なことになると思います。しかしこのたとえ話は学校の先生などにそのように求めているのではありません。でも、まだ迷っていない99匹と迷ってしまった一匹のどちらを取るかと問われるならば、能率の点から言えば、一匹の羊を見つけ出す可能性と、一時であるとしても99匹を羊飼いのいない危険にさらすことを秤にかけて、99匹の方を取るのがこの世の中の考え方です。業績という点からすれば、いなくなってしまう羊よりも99匹を選ぶかもしれません。1を切り捨てて99を追い求めていく世界です。現代は効率を追求する社会であり、企業はより高い性能の製品を、より早く、より少ない労力で、より多く生産することにしのぎを削っていると言えるかもしれません。生産性を向上させ、競争に勝利したものが市場を支配する。企業も人間も業績や能率によって評価されます。人間も商品のように扱われ、数量化されていく。能率や業績という物差しが人間の価値を定めていく客観的な尺度となっている時代です。そのような能率主義、業績主義に囲まれて、いつの間にか、一人に込められた固有の価値、他に代えがたい価値が失われ、ともすると、生きる意味を喪失してしまう時があるのです。自分は一体何者なのか、生きる意味は何かと問いながら生きざるを得ない時代なのです。

 けれども、この羊飼いは当然のように99匹を残して、迷った一匹の羊を探しに行きました。この譬え話のポイントは14節「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」という言葉にあります。いなくなったのがたった一匹の羊、一人の人間、どんなに小さなちっぽけなどうでもよいと思える者でも、どんなに弱く無力に覚える者であっても、その羊が滅びることを望まない。その一匹の羊が命を得て救われることを羊飼いは望んでいます。その羊が滅びるのではなく豊かな命を得て生きることを喜び、その羊をそのままで愛し、祝福し、その存在を喜ぶのです。それほどまでに一匹の羊の価値は、羊飼いにとって大きく、他に代えがたい羊なのです。その理由は、ひとえに、ただ、この迷い出した一匹の羊が、羊飼いのものであり、羊飼いにとってかけがえのない大事な宝のような羊である、ということにしかありません。

 私たち一人一人も神さまのものであり、神さまにとってかけがえのない愛する子供です。だからこそ、私たちが失われ滅びるのではなく、豊かな命を得て生きるために、神さまは大事な一人子であるイエス様を羊飼いとして私たちのもとに送って下さいました。神さまから離れ、神さまの懐から離れていた私たち一人一人を探し求めるためにイエス様は人となられ、来てくださいました。今、イエス様が私たちを探し出し、見つけ出し、背負い、父なる神さまのもとに連れ戻して下さっています。ユダヤ教の思想家であり、旧約聖書の専門家であるアブラハム・ヘッシェルという人は『人間を探し求める神』という本を書きました。それが旧約聖書全体に渡って現れている神の姿だというのです。人間がいくら祈り、修練し、知恵を積み重ねて、神を探し求めても、本当に神を見出すことはできません。大事なことは人間を探し求める神を知り、この神に出会い、この神の道に生きることだというのです。イエス・キリストが人間を探し求める神として来てくださったのです。

 小さな者たちには天使が共にいることが書かれていますが、守護天使と呼ばれるようなものがいるのではなく、神さまがいつも配慮し、大切にし、共にいてくださることを示しています。自分はいったい何者なのか、自分に価値はあるのか、生きる意味はあるのか。そのように問いながら生きる私たちが、今ここでこれからを希望をもって生きていくことを始めていくために、私たち一人一人が神さまのかけがえのない子供であり、イエス様に探し出され、見つけ出され、背負われている羊であり、神さまに愛され、祝福されている存在である、そのことを受け入れていくことが必要なのです。私たちは一人一人神さまに愛され、祝福されている存在です。山に残された99匹の羊もこの羊飼いの思いが自分にも注がれていることを知っているからこそ、この羊飼いが一匹の羊を探し出すことを喜ぶことができるのです。

 今日のマタイによる福音書の譬え話がルカによる福音書の譬え話と少し違うところがもう一つあります。ルカによる福音書では特に私たち一人一人が探し出された羊であることを強調していますが、マタイによる福音書ではそれを前提に私たちはさらに99匹の羊の側にいるものでもあることを強調しています。イエス様は弟子たちに、ご自分と一緒に、迷い出た一匹の羊を探し求め、受け入れ、大切にするように、と言われているのです。

 私たち一人一人はすぐに迷いでてしまうような羊です。けれども、一人一人が神さまに愛され、探し出され、背負われている羊であり、互いにそのような羊として受け入れ、大事にして、仕えていく。それが教会の交わりなのです。東京主僕教会は61年目の歩みを始めていますが、この神さまの愛を一緒に喜びながら、互いに、またこの世界の人々を大事にして歩んでいきたいのです。

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