東京主僕教会の最近の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。なお、礼拝音声は諸事情により、しばらくの間おくことにしていますので、ご了承ください。

2024年3月24日礼拝

 

****礼拝情報は下記にあります****

 

【1】礼拝順序

《 前    奏 》
《 神の招き 》
招きの言葉(起立)    イザヤ書50章4節
讃 美 歌(起立)    130
《 罪の告白 》
罪の告白の祈り(起立)    交読詩編 詩編22編2-12節
主よ、あわれみを(起立)    21-31
恵みの言葉(起立)    ヨハネによる福音書3章16節
《 神の言葉 》
聖霊の導きを求める祈り
聖書朗読    マルコによる福音書15章21-32節、
    フィリピの信徒への手紙2章5-11節
讃 美 歌(起立)    21-306
説   教    「キリストの十字架の死」
《 感  謝 》
執り成しの祈り
讃 美 歌(起立)    140
信仰告白(起立)    使徒信条
奉   献
主の祈り(起立)
《 派遣と祝福 》
頌   栄(起立)    546
派遣の言葉(起立)
祝   福(起立)
《 後  奏 》
*健康上お立ちになりにくい方は着席のまま礼拝をお守り下さい。

 

【2】聖書朗読

・マルコによる福音書15章21-32節
21そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。 22そして、イエスゴルゴタという所――その意味は「されこうべの場所」――に連れて行った。 23没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。 24それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、
その服を分け合った、
だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。
25イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。 26罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。 27また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。 28† 29そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、 30十字架から降りて自分を救ってみろ。」 31同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。 32メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。

・フィリピの信徒への手紙2章5-11節
 5互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。 6キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 7かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 8へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 9このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。 10こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、 11すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

 

【3】説教

 本日の主日の日曜日は、受難節の最後の日曜日で受難の主日、棕櫚の主日と呼ばれます。この日から受難週がはじまります。受難週は主イエスエルサレム入城から、十字架につけられ、死んで葬られる日、イースターの前日まで、主イエスの最後の一週間の歩みを覚えて過ごします。最初にマルコによる福音書の受難の物語を読みました。四つの福音書は、それぞれに主イエスの受難と死の物語があり、大筋では同じですが、細部にちがいがあり、アクセントのおき方や、関心の示し方に特徴があります。マルコによる福音書にはも独自のテーマがあります。マルコによる福音書は「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉から始まります。けれども、神の子であるということが明らかに示されたのは、15章39節で「本当にこの人は神の子だった」という百人隊長の告白にあるように、十字架の上で息をひきとり、全ての物語が終わってしまったかと思える瞬間です。主イエスが捕らえられ、裁かれ、 殺されていくことを語りながら、その中で主イエスが神の子であるという事実を示しています。そのことは私たちに一体どのような関わりがあるのでしょうか。

 今日のマルコによる福音書で、主イエスはまさに捕らえられ、裁かれ、繰り返し、あざけりのことばをあびせられます。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、 30十字架から降りて自分を救ってみろ」。「他人は救ったのに、自分は救えない。 32メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」。もし、神が英雄のように、スーパーマンのように考えられているとすれば、この主イエスの姿に神であることのしるしをみることはできません。人間的な目でみれば、主イエスはここでなにひとつ、神であるというしるしをあらわしてはいません。もし、この場にわたしたちがいることができたとしたら、公の権威によって裁かれ、二人の犯罪人とともに処刑された主イエスを見て、神とのつながりがある、神そのものであると確信をもつことは難しく思います。みじめでなすすべもなく、すべてをはぎとられている。つばきをかけられ、いばらの冠をかぶせられ、人びとからの辱めの中で汚れきっている。誰もそんなふうにはなりたくないと思うのではないでしょうか。その姿自体に輝きにあふれる神の姿を結びつけて考えることは難しく思えます。

 それならマルコによる福音書は、主イエスが神の子であることのしるしをどこに見るのでしょうか。マルコによる福音書において、主イエスの使命を語る御言葉は、10章42節から45節の御言葉です。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。 43しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 44いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。 45人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」。主イエスが私たちの身代金、贖いのために、僕となってご自分の命を献げてくださいました。マルコによる福音書は、主イエスが神の子であることの、より確かなしるしを、十字架から決して降りようとはなさらず、私たちを贖うためにご自分の命をささげ、十字架の死を引き受ける、その神の愛の中に見るのです。

 マルコによる福音書では、受難物語が始まると、病をいやし、悪霊を追放する主イエスの姿は消えていきます。そのかわり、どんな苦しみがやって来ても、それに耐えていく愛の力強さがあらわれていきます。ご自分を殺そうとする悪や憎しみがのしかかってこようとも、弟子たちから裏切られても、主イエスは愛の道を歩みつづけられます。うちのめされ、 十字架にはりつけられ、苦しみに全身でのたうちまわる状況においつめられても、私たちに対する愛はゆらぐことがありません。愛は苦しみが深まれば深まるほど、高まっていきます。フィリピ書の2章6節から「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 7かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 8へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」とあります。神としての身分を手放し、ご自分を無にして、空にして、僕となって私たちに対する愛に満たされました。へりくだり、ご自分のいのちをささげ、十字架の死に至るまで、私たちを贖う神の愛の御心に従順に仕えてくださいました。

 「本当に、この人は神の子だった」。主イエスが息を引き取られたのを見て百人隊長が言ったのは、ファリサイ派や長老たちの陰謀が成功し、邪魔者を抹殺できたとほっとした、罪と悪の力、死の力が勝利したように見えた瞬間です。弟子たちにとって、あきらめと絶望のどうしようもない敗北感にうちのめされた瞬間です。すべてが終わったとしか思えない瞬間です。私たちにもそのように思える時があります。しかし、そこに私たちを愛し、十字架で私たちのためにご自分の命をささげて、私たちを贖い、神のものとして、復活してくださった主が共におられます。わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、どんなものも引き離すことはできません。主イエスの十字架に、神が私たちを主イエスにおいてしっかりと掴み、捉えていてくださる。私たちを決して手放したりしない。この神の愛が現れています。

 受難週を迎え、イースターを迎えていく時、確認したいのは、信仰とは自分の力で神を捉えるのではなく、神がキリストにおいて捉えていてくださる、このことを信じて受け入れて、主に自分の全てを委ねていくことです。その私たちに神は御業をもって働いてくださり、主の愛をもって仕えるものとして導いてくださいます。受難週の始まりの朝、わたしたちのための十字架の主の愛に捉えられていることを信じて、自分を委ねて、主の愛をもって一人一人の仕方で仕えていくことができるように祈りたいと思います。

 

【4】説教後の祈り

 御子イエス・キリストによって贖ってくださった父なる神さま。受難週の始まりの今朝、十字架の主の愛に捉えられていることを信じ、自分を委ねて、主の愛をもって一人一人の仕方で仕えていくことができますように祈ります。

 あなたは愛と憐れみをもって御子イエス・キリストによってへりくだり、この世界の全ての人々と私たちのもとに来て、仕えておられます。私たちもあなたと同じように、自分を低くして、この世界の困難の中にある人々のためにあなたの愛と憐れみが豊かにありますように祈ります。住む家のない人々、苦難を負って避難している人々、貧しさのなかで必要なものを手に入れることが出来ない人々、孤立し、孤独の中にある人々をあなたの愛で満たし、助けてください。予期せぬ事態に直面している人々、病気やケガで苦しむ人々、災害に苦しむ人々を助け、自らの過ち、他者の過ちによって苦しむ人々を癒してください。この世界の人々が互いに仕え合うことができますように。

 この受難週、私たちも全ての教会も、御子イエス・キリストの愛に満たされ、へりくだり、キリストの思いをもって、仕え、あなたを賛美して、あなたの栄光を現わしていくことができますように。中会を終えた全ての諸教会の新しい歩みの上にあなたの祝福と力を与え、あなたの宣教の御業のために用いてください。

 この時、心に顔を思い浮かべることのできる方々、心と体に痛みをもち、病の中にある方々に、あなたの癒しと力と希望をお与えください。この礼拝を覚えながら、様々な事情で来ることのできなかった方々、今ここにいるお一人一人、場所が違っても一緒に礼拝されている方々、心に覚える人々をかえりみ、今日から始まる日々を祝福し、導いてください。この時、私たちの心の中にある全ての祈りを顧みてくださり、どうか憐れんでください。

 この祈りを世の終わりまで私たちと共にいてくださる主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン