東京主僕教会の最近の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。なお、礼拝音声は諸事情により、しばらくの間おくことにしていますので、ご了承ください。

2024年3月17日礼拝

 

****礼拝情報は下記にあります****

【1】礼拝順序

《 前    奏 》
《 神の招き 》
招きの言葉(起立)    フィリピの信徒への手紙3章13-14節
讃 美 歌(起立)    85
《 罪の告白 》
罪の告白の祈り(起立)    交読詩編 詩編51編1-14節、

主よ、あわれみを(起立)    21-32
恵みの言葉(起立)    ヨハネによる福音書3章16節
《 神の言葉 》
聖霊の導きを求める祈り
聖書朗読    エレミヤ書31章31-34節
    ヨハネによる福音書12章20-33節
讃 美 歌(起立)    138
説   教    「一粒の麦もし死なずば」
《 感  謝 》
執り成しの祈り
讃 美 歌(起立)    21-313
信仰告白(起立)    使徒信条
奉   献
主の祈り(起立)
《 派遣と祝福 》
頌   栄(起立)    544
派遣の言葉(起立)
祝   福(起立)
《 後  奏 》

 

【2】聖書朗読

 

エレミヤ書31章31-34節
31見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。 32この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。 33しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 34そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

 

ヨハネによる福音書12章20-33節
20さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。 21彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。 22フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。 23イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。 24はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。 25自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。 26わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
27「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。 28父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」 29そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。 30イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。 31今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。 32わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」 33イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。

 

【3】説教

 今、主イエス・キリストの十字架の死に至る御受難を覚える受難節の歩みを迎えています。先ほど読みましたヨハネによる福音書の御言葉もこの主日の礼拝で読まれている聖書の御言葉です。ヨハネによる福音書には他の福音書にある主の祈りの教えのようなものはありませんが、それにあたるものが「父よ、御名の栄光を現わしてください」という祈りの言葉です。「御名が崇められますように」という祈りに似ています。この祈りがここでヨハネによる福音書の中心にあり、この祈りによって力強く主イエスは御受難の歩みを進めていかれます。

 けれども、今日の聖書の個所には「栄光」という言葉が何度もでてきますが、このことは主イエスは人生の歩みの中で何度も栄光とは何か、栄光はどこにあるのか、そのことを困難の時、悩みの時に確認していかれたということも言うことができるのです。直前の11章から主エスがラザロを復活させる出来事が続いていますが、この出来事によってかえって、主イエスに対する敵意、殺意が深まり、それが頂点に達していくのが、ギリシャ人の異邦人が主イエスのもとにやって来た時です。主イエスは十字架の死を予感し、恐れをあらわにされて、深い悩みの中に入っていかれます。「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか」。不安で心が落ち着かなくなってしまう。気持ちを落ち着かせたいのにそれができず、不安と恐れが大きくなっていく。けれども、この時、ご自分に与えられる神の栄光を見直してから、13章から力強く、前進していかれます。私たちも人生の歩みのなかで困難に直面する時、「栄光」という言葉を再定義する、見つめ直すことが力となります。

 私たちにとって、栄光とは何でしょうか。時々、「繁栄の福音」という言葉を目にすることがあります。地位や健康、財産の繫栄を福音に結び付けた理解です。信仰が深まれば、信仰が篤ければ、地位や健康、財産が繫栄する、足りないもの、欲しいものが手に入り、願いが成就する、何かに成功するといった福音の理解です。栄光も繫栄と同じように理解されることがあります。もちろん、願いごとは何であれ、神さまに祈り求め、神さまが働いてくださることを祈り求めます。けれども、どうしても願うようにならない時があります。その時、福音も救いもないということになってしまいます。それでは、神さまから今いただいている豊かな恵みに気づくことができません。今与えられている賜物を用いて、豊かに生きることができません。それは、聖書の福音の理解とは違うのだと言われることです。ここで不安と恐れの中にあった主イエスが力を与えられていくきっかけとなったのは、栄光についての自分の理解を見つめ直されたことでした。

 主イエスは「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われます。栄光を受ける時とは、この後に起こってくるご受難、十字架の死を指している言葉です。主イエスは御自分を一粒の麦にたとえて言われます。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。一粒の実が地に落ちて、死ななければ、多くの実を結ぶことはできません。一粒の麦が地に落ちて死ぬ。そして新しい命が多く生まれ、新しい芽がふきだす。「わたしはまさにこの時のために来たのだ」と言われます。主イエスが死の恐れと不安の中で確認されたのは、ご自分のルーツ、原点です。主イエスの御受難と十字架の死は、主イエスと父なる神だけが知っている、あらかじめ考えられていた救いのご計画の一部でした。「使命」とは、「命を使う」と書きます。自分の命を何に使うのか。ご受難と十字架の死にご自分の命を使っていく。それが主イエスが私たちに実を結ばせるために引き受けてくださった使命であり、そこに神の栄光が現わされていくことを確認されたのです。その原点に立ち返り、強い決意をもって前に進んでいかれました。

 私たちにとって、栄光は十字架の形をしています。栄光は主イエス・キリストの御受難と十字架と復活にあり、そのキリストの御苦しみと死にあります。主イエス尊い血によって、神のもの、キリストのものとされています。それが原点であり、私たちはこの主イエスに結ばれて、豊かな実りを結ぶものとされています。だから、パウロはキリストの死と復活に与かり、多くの実を結ぶことについて語ります。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。」「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」。栄光を地位や健康、財産の繫栄、成功と言ったようなことで理解してしまうなら、この御言葉、与えられている神の恵みを見出すことができないのです。

 ハイデルベルク信仰問答は第一問で、「生きている時にも死ぬ時にも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」と問います。答えは、「私が私の真実なるイエス・キリストのものである」ことです。エレミヤ書に「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」となるように、この契約の約束が主イエスの十字架によって実現され、私たちは「生においても死においても、身も心も、忠実な救い主イエス・キリストのもの」とされています。弱さのなかで、困難の中で与えられている福音があり、祝福があり、栄光がある。主が共にいまし、神の愛の中に置かれている栄光があるのです。
私たちも一粒の麦である十字架の主イエスに連なり、実を結ぶものとされています。受難節、栄光とは何かを見つめ直し、この主イエスの御受難と十字架を私たちの歩みのルーツ、原点として、主イエスに自分を委ね、根を下ろして、主イエスの恵みに生かされて、歩んでいきたいと思います。

 

【4】説教後の祈り

 私たちのために救いの御計画を立て、実現してくささった父なる神さま。日々の歩みの中で、様々な不安と思い煩いに包まれますが、どうか御子イエス・キリストの十字架の死と復活に立ち返り、イエス・キリストのものとされているあなたの栄光の中にあり、豊かな実りを結ぶ者として用いられていくことができますように。

 あなたは変化と混乱の中にあるこの世界にあって共にいてくださいます。私たちは不安の中にある全ての人々のために祈ります。どうか、疑いと敵意による不和、対立が起こっているところに、互いに大切にして尊重する愛と平和を実現してください。問題のある全ての場所にあなたによる解決を与え、あなたによる正義と和解を実現させてください。悲しむ人々を慰め、紛争や災害、様々な形で傷ついた人々を癒し、仕事や就職の困難の中にある人々を助け、病める人々を癒してください。救いの喜び、生きる喜びを全ての人々に回復してください。
 日本キリスト教会ではこの3月、それぞれの各中会で定期中会が開かれていますが、どうか、一つ一つの中会があなたの御業によりよく仕えていくために、この話し合いの時をあなたが祝福し、御心によって導いてください。全ての教会、特に無牧師の教会の人々をあなたが顧みてくださり、全ての人々が充実した礼拝を守ることができますように導いてください。

 この時、心に顔を思い浮かべることのできる方々、心と体に痛みをもち、病の中にある方々に、あなたの癒しと力と希望をお与えください。この礼拝を覚えながら、様々な事情で来ることのできなかった方々、今ここにいるお一人一人、場所が違っても一緒に礼拝されている方々、心に覚える人々をかえりみ、今日から始まる日々を祝福し、導いてください。この時、私たちの心の中にある全ての祈りを顧みてくださり、どうか憐れんでください。

 この祈りを世の終わりまで私たちと共にいてくださる主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン