東京主僕教会の最近の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。なお、礼拝音声は諸事情により、しばらくの間おくことにしていますので、ご了承ください。

2024年3月10日礼拝(合同礼拝)

 

****礼拝情報は下記にあります****

 

【1】礼拝順序

《 前    奏 》
《 神の招き 》
招きの言葉(起立)    エフェソの信徒への手紙5章8節
讃 美 歌(起立)    2(1、2)
《 罪の告白 》
罪の告白の祈り(起立)    交読詩編 詩編107編1-9節
主よ、あわれみを(起立)    21-31
恵みの言葉(起立)    ヨハネによる福音書3章16節
《 神の言葉 》
聖霊の導きを求める祈り
聖書朗読    民数記21章4-9節
    ヨハネによる福音書3章14-17節
讃 美 歌(起立)    21-305(1、2)
説   教    「神さまの愛」
《 感  謝 》
執り成しの祈り
讃 美 歌(起立)    21-564(1、3)
信仰告白(起立)    使徒信条
奉   献
主の祈り(起立)
《 派遣と祝福 》
頌   栄(起立)    543
派遣の言葉(起立)
祝   福(起立)
《 後  奏 》

 

【2】聖書朗読

民数記21章4-9節
4彼らはホル山を旅立ち、エドムの領土を迂回し、葦の海の道を通って行った。しかし、民は途中で耐えきれなくなって、 5神とモーセに逆らって言った。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」 6主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。 7民はモーセのもとに来て言った。「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」モーセは民のために主に祈った。 8主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」 9モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。

ヨハネによる福音書3章14-17節
14そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 15それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

 

【3】説教

「神さまの愛」 日曜学校との合同礼拝

 
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」。この言葉は昔の宗教改革マルティン・ルターが「小聖書」と呼んだほど、聖書のメッセージがこの一言で言い表されているものとして大事にされてきました。けれども、愛するという言葉は、わかるようでわからないし、恋愛のことを思い浮かべたりするかもしれません。昔の話ですが、日本に初めてキリスト教が伝えられた 16 世紀の1549 年、フランシスコ・ザビエルが日本にやってきて、スペインやポルトガルから、キリスト教の宣教師が次々と来日しました。そうすると、すぐに宣教師達は聖書を日本語に訳していく作業を始めました。ところが、日本語には「愛する」と言う言葉が存在していないことに気づきました。「愛する」と日本語で訳されている言葉はもともとのギリシャ語では、アガペーという言葉です。聖書では神さまの人に対する言葉ですが、この言葉をどんな日本語で訳したらよいか、話し合いを重ねて、最初は「ご大切」という言葉で訳しました。当時愛という言葉もなく、恋愛などと結びついて理解されてしまうのもいけない、だから、誤解を避けて「大切」という言葉が選ばれました。神様を「ご大切に思う」。人は「ご」をつけないで「大切に思う」と教えられました。神さまをご大切に思う、人を大切に思う。その土台が神さまに大切にされていることです。

 神さまが私たち一人一人を大切にしてくださっていることは聖書の始まりからの大きなメッセージです。聖書の最初の旧約聖書の創世記には神さまがこの世界を造られた不思議な話がありますが、この物語が伝えていることは「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」ということです。「それは極めて良かった」。この一言がとても重要です。この世界にあるすべてのものは、神の手によって造られた。だから、この世界にあるものはすべてすばらしい。道端に咲く花も、空を飛ぶ烏も、森の木々やそこに住むすべての生き物も、海も山も川も、そして、あなたもわたしも、神によって造られ、この世界に生まれてきた。神によって造られた以上、極めて良いものであり、生まれながらに価値のある、すばらしいものであるのです。それがこの物語の重要なメッセージです。インドで貧しい人々に仕えたマザー・テレサは、「わたしたち一人ひとりが、神の最高傑作」だと言いました。神という陶芸家は、一つひとつの作品を丹精込めて造リあげ、「もうこれ以上はできない」というところまで造リ込んでこの世界に送り出しました。だから、あなたもわたしも神の最高傑作だというのです。『なんでも鑑定団』というテレビ番組がありますが、家に昔からある、一見、何の変哲もない普通のもの。どこにでもありそうな、平凡なありふれたものが実は思ってもみなかった想像以上の価値がある。世界でたった一つだけの最高傑作。自分には分からない想像以上の価値がある。それが私たち一人一人です。

 けれども、人と自分を比べると、自分は劣っている、何もできない、自分はダメな人間であり、最高傑作ではないと思える時があります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」。この「独り子」とは神さまの子どもであるイエスさまのことですが、神さまが独り子であるイエスさまをこの世界と私たち一人一人にお与えになるということは、ただ単にこの世界にお遣わしになるというだけではありません。この「お与えになった」という言葉には、「死に引き渡された」という意味もあります。神さまは私たち一人一人が大切であるからこそ、イエスさまを死に引き渡すことを覚悟で遣わされたのです。

 人が人を大切にして愛するのには様々な理由があります。私のことを愛してくれるから、この人を愛する。私に親切にしてくれるから、私も親切にする。またこの人を大切にすると、「ありがとう」と喜んでくれるから大切にする。「だから」愛する、大切にする。それが私たち人間の限界かもしれません。しかし神様の愛は違います。「にもかかわらず」の愛です。ローマ5:7~8(P279)「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」。私たちも全ての人も例外なく神さまに背き、神さまに従い切ることのできない罪人です。けれども、神様の愛は、私たちが「罪人であった時でさえ」「敵であった時でさえ」変わることなく、注がれています。ご自分の大事な独り子を十字架の死に渡してまで、私たちを赦し、受け入れ、大事な神の子としての永遠の命を与えてくださっています。何かができるできないにかかわらず、あなたがあなたである。ただそれだけの理由で、あなたはわたしにとってかけがえのない存在であり、貴重な価値のある存在である。もし何もできなくなっても、わたしはあなたを愛している。それが、イエスさまの私たちのための十字架の死によって教えられている神さまの無条件の愛です。この神さまの愛を信じて、神さまの愛を分かち合い、互いに大切にしていくところが教会なのです。

 神さまがこの愛をもっていつも一緒にいてくださるからこそ、安心することができます。神さまに愛されているからこそ、人とは違う自分を見ても、大丈夫。神さまが大切にしてくださっているからこそ、神さまに大切にされている自分には、その人とは違う役割がある自分として見つめ直し、自分らしい花を咲かせていくことができます。このイエスさまの十字架に示された神さまの愛に希望をもってイエスさまに従って歩んでいきたいと思います。

 

【4】説教後の祈り

 御子イエス・キリストの父なる神さま。御子イエス・キリストを、私たちのために死に渡すほど、私たちを愛し、赦し、神の子として、永遠の命を与え、導いてくださることを感謝します。どうか、何かができなくても、だからではなく、にもかかわらず、神さまにかけがえのない貴重な存在として大切にされ、愛されていることを信じ、希望をもって歩んでいくことができますように。

 あなたが極めて良かったと愛し、創造されたこの世界の全ての人々のために祈ります。どうか、あなたに愛されて造られた命が喜びをもって生きることができますように。賢く資源を用いて全ての命が平和に生きることができますように。暴力や復讐、憎しみや敵意、貪欲、虚栄心を打ち破り、罪と悪の力に十字架で勝利したあなたの愛の力がこの世界に満ち溢れますように。体や精神に傷を負った人々に休息と癒しを与え、喪失と不安の中にある人々に慰めを与えてください。新しい学年、新しい歩みを迎えていく学生の方々、そのご家族、その全てをあなたが守り、祝福してください。

 この時、心に顔を思い浮かべることのできる方々、心と体に痛みをもち、病の中にある方々に、あなたの癒しと力と希望をお与えください。この礼拝を覚えながら、様々な事情で来ることのできなかった方々、今ここにいるお一人一人、場所が違っても一緒に礼拝されている方々、心に覚える人々をかえりみ、今日から始まる日々を祝福し、導いてください。この時、私たちの心の中にある全ての祈りを顧みてくださり、どうか憐れんでください。

 この祈りを世の終わりまで私たちと共にいてくださる主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン