東京主僕教会の最近の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。なお、礼拝音声は諸事情により、しばらくの間おくことにしていますので、ご了承ください。

2024年5月26日礼拝

 

****礼拝情報は下記にあります****

 

【1】礼拝順序

   

神の招き

招きの言葉(起立)           詩編29編11節

讃 美 歌(起立)           66

罪の告白

罪の告白の祈り(起立)    交読詩編 詩編29編

主よ、あわれみを(起立) 21-32

恵みの言葉(起立)           ローマの信徒への手紙8章15-16節

神の言葉

聖霊の導きを求める祈り

聖書朗読            イザヤ書6章1-8節、 ローマの信徒への手紙8章12-17節

讃 美 歌(起立)      266

説   教                    「神の子とする霊」

感  謝

執り成しの祈り

讃 美 歌(起立)           21-346

信仰告白(起立)             使徒信条

奉   献

主の祈り(起立)

派遣と祝福

頌   栄(起立)           544

派遣の言葉(起立)

祝   福(起立)

後  奏

*健康上お立ちになりにくい方は着席のまま礼拝をお守り下さい。

 

【2】聖書朗読


イザヤ書6章1ー8節
1ウジヤ王が死んだ年のことである。 わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。 2上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。 3彼らは互いに呼び交わし、唱えた。
「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。
主の栄光は、地をすべて覆う。」
4この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。 5わたしは言った。
「災いだ。わたしは滅ぼされる。
わたしは汚れた唇の者。
汚れた唇の民の中に住む者。
しかも、わたしの目は
王なる万軍の主を仰ぎ見た。」
6するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。 7彼はわたしの口に火を触れさせて言った。
「見よ、これがあなたの唇に触れたので
あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」
8そのとき、わたしは主の御声を聞いた。
「誰を遣わすべきか。
誰が我々に代わって行くだろうか。」
わたしは言った。
「わたしがここにおります。
わたしを遣わしてください。」

*ローマの信徒への手紙8章12-17節
12それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。 13肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。 14神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。 15あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。 16この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。 17もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。

 

【3】説教

   今日の聖書の御言葉は、聖霊降臨日の礼拝の後の今日の三位一体の主日と呼ばれる礼拝で読まれる聖書の個所です。天に昇られた主イエスが遣わして下さる聖霊によって与えられている、父と子と聖霊の三位一体の神の恵みが覚えられてきました。ローマの信徒への手紙の8章で、パウロは私たちを導く聖霊の働きについて教えています。神の霊を受け、神の霊が内に宿ってくださり、神の霊によって導かれる者となっている。キリストに属する者、キリストによる救いにあずかり、キリストと結ばれて、復活のキリストの新しい命を生きる者とされている。そのように教えた後、神の霊によって導かれる者は神の子とされている、と教えています。

 ある新約学者は、この手紙を書いたパウロは、この個所を出エジプトをして、荒れ野をさまよい、約束の地に導かれていったイスラエルの人々の経験を念頭において語っていると言っています。エジプトから解放される時、ファラオに対して、神がこのように言うようにと言われた言葉に今日の御言葉と似た言葉があります。出エジプト記4章22節に「あなたはファラオに言うがよい。主はこう言われた。『イスラエルはわたしの子、わたしの長子である』」という言葉があります。ファラオから解放され、失敗や挫折を経ながら、長きにわたって荒れ野を放浪し、導かれていった人々を支えた言葉です。この言葉に支えられて、神が共にいてくださる、と雲の柱、火の柱に導かれて、歩んでいきました。神の霊によって私たちも主イエス・キリストに結ばれて、同じ神の子とされ、神に向かって「アッバ、父よ」と呼びかけて生きることができる。それが荒れ野のような現実に生きる私たちに聖霊によって与えられている救いなのです。

 「アッバ、父よ」という言葉はイエス様が福音書で父なる神に呼びかける時に使われたアラム語の言葉です。「アッバ」という言葉は子供が父親におとうちゃんと親しく呼び掛ける言葉ですが、それを主イエスは父なる神に用いました。当時のユダヤの人々には神を呼ぶ時の言葉としては考えられないものでした。使徒たちによってキリストの福音が伝えられていったのは当時のコイネーと呼ばれるギリシャ語の世界でしたが、この言葉はギリシャ語に訳されませんでした。主イエスの語られた言葉をそのまま用いているところに大きな意味があります。「アッバ、父よ」と祈られた主イエス・キリストを見なさい。そこにキリストに結ばれて、神の子とされている私たちの本当の姿がある。私たちもキリストに結ばれて、神の子とされ、主イエスと神の親と子の親しい関係に招き入れられているのです。

 信仰を持つと、神の奴隷となってしまい、厳しい戒めに縛られ、神の顔色をうかがってびくびく生きる、と誤解する人もいます。けれども、決してそうではありません。奴隷になるのではなくて、神の子とされるのです。信仰をもって生きるということは、神の子とされ、神に愛されている者として生きることです。主イエスを信じ、聖霊によって、主イエスに結ばれて、私たちは、神と御子イエス・キリストの親子の真実の愛の関係の中に招き入れられます。神が私たちの天の父となり、私たちを無条件で愛し、養い、守り、キリストと共に相続する、神の子としての命の完成へと導いて下さるお方として共にいてくださいます。

 15節の「アッバ、父よ」と「呼ぶ」のは、私たちではなく、私たちを執成す聖霊も一緒に呼んでくださるということです。この「呼ぶ」という言葉のもともとのギリシャ語の言葉は静かにささやくような言葉ではなく、カラスの鳴き声を表す擬音語であるという解説がありました。カラスの鳴き声は耳をつんざくように、周りの全ての音を押しのけ、力強く響いていく大きな大変な叫び声です。聖霊がなにものにも妨げることのできない強力な力で私たちが神の子であると叫び、証ししているのです。

 私たちは自分の力でどうにもならない出来事に直面する時があります。なぜ、自分にこのようなことが起こるのか、分からない時があります。けれども、今日の御言葉によれば、確かなことは、なぜ(Why)、という問いに対する答えが分からなくても、どこに(Where)、神はどこにおられるのか、その答えを知ることができます。聖霊によって、神がこの痛みと悲しみの中で共におられる。「もし」、神の「子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです」。私たちの弱さや混乱、疑いや孤独、苦しみのすべて受け止め、共に苦しんで、命へと導いてくださる。聖霊が疑いや苦しみなどの中で、神の子とされている恵みを見出すことができるように導いてくださるということです。奴隷のようにビクビクと恐れながら生きるのではなく、その神の父としての真実な愛の下で、父である神を信頼し、安心して、神を仰ぎ見て生きることが出来るようになるのです。

 ヘンリ・ナウエンというカトリック教会の牧会学の先生の『死を友として生きる』という本の中で、死の準備として強調している一つのことは、この個所をあげながら、私たちは神の子である、ということです。交通事故に遭い、大変な手術を受けて、無力な赤ん坊のようになり、周りの人に自分の身を任せるほかない状況になった時、この自分の経験を通して、この神の子としてしっかりと神の御手に抱かれているということに導かれ、力と勇気を与えられたというのです。神の子としてしっかりと神の御手に抱かれている。この神に神の子として信頼していく時、死を大きな生、神の命の交わりの中に位置づけてくれる。神がしっかりと抱きしめてくださることを確信する時、そこから勇気と力を与えられる。何が起ころうとも、なにものも恐れることなく、大きな信頼をもって人生を生きることができる。どんなものも本当に力を振るうことはできない、何ものも奪うことのできない神の子どもとしての自由を見出し、神の子として恐れることなく生きることができるのです。

 三位一体の神を覚える主日は自分の人生の物語をキリストに結ばれた神の子として神の救いの物語につなげていく時です。イエス・キリスト聖霊と父なる神の救いの物語を私たちの物語の一部としていく時です。そこからこれからの荒野を生きるための力と勇気を与えられていくのです。

 

【4】説教後の祈り

 私たちに御子イエス・キリストによる救いの恵みを与え、聖霊の交わりの中に置き、神の子としてあなたの大きな愛のなかに捉えて下さっている父なる神さま。様々な恐れと不安の中にありますが、どうか、あなたの三位一体の神の御手の中にとらえられている神の子であることを信じて、あなたの恵みを見出し、あなたの愛をこの世界に取り次いでいくことができますように教会と私たちを導いてください。

 あなたは今もこの世界に愛と喜びをもって神の子として生きるものに導くために三位一体の祝福の御業をもって生きて働いておられます。しかし、この世界に人を奴隷としておとし入れる様々な霊の力が働き、今なお地上は闇でおおわれています。   恐れの闇があり、戦争、暴力、破壊の恐怖があり、愛の欠け、死の恐れがあります。どうか、全ての人々を恐れから解放し、愛と喜びと自由をもって生きることができますように導いてください。絶望の中にある人々に希望をお与えください。環境危機がもたらす課題に対して、世界の人々も私たちもよりよく対処していくことができますように。戦争が続いている場所にあって、平和と和解が実現しますように、苦しむ全ての人々を助けてください。あなたが聖霊を通して共にいてくださる恵みを全ての人々が知ることができますように。

 そのために全ての教会、私たちの教会がどんな時も、主が共にてくださり、共に歩んでくださっていることを信じ、あなたの愛を証ししていくことができますように、そのために道を示し、支え、用いてください。

 この時、顔を思い浮かべることのできる、心と体に痛みをもつ方々に、疲れを覚えている方々に、あなたの慰めと癒しをお与えください。弱さの中にあって、あなたの恵みが強く、あなたにあっていかなることも空しくないことを信じさせて下さい。どうか、心に覚えるすべての人々を祝福して下さい。この礼拝を覚えながら、様々な事情で来ることのできなかった方々を祝福し、顧みて下さい。そして、ここにおられる全ての人々の心身を守り、支えてください。今私たちの心の中にある全ての祈りを顧みてくださり、どうか憐れんでください。

 この祈りを世の終わりまで私たちと共にいてくださる主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン