東京主僕教会の最近の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。なお、礼拝音声は諸事情により、しばらくの間おくことにしていますので、ご了承ください。

2024年6月23日礼拝

 

****礼拝情報は下記にあります****

 

【1】礼拝順序

   

神の招き

招きの言葉(起立)           コリントの信徒への手紙二 6章1-3節

讃 美 歌(起立)           21-6

罪の告白

罪の告白の祈り(起立)    交読詩編 詩編46編

主よ、あわれみを(起立) 21-32

恵みの言葉(起立)           ヨハネによる福音書3章16節

神の言葉

聖霊の導きを求める祈り

聖書朗読            サムエル記上17章31-40節

                       マルコによる福音書4章35-41節

讃 美 歌(起立)      298

説   教                    「嵐を静めるイエス

感  謝

執り成しの祈り

讃 美 歌(起立)           520

信仰告白(起立)             使徒信条

奉   献

主の祈り(起立)

派遣と祝福

頌   栄(起立)           539

派遣の言葉(起立)

祝   福(起立)

後  奏

 

【2】聖書朗読

サムエル記上17章31-40節
31ダビデの言ったことを聞いて、サウルに告げる者があったので、サウルはダビデを召し寄せた。 32ダビデはサウルに言った。「あの男のことで、だれも気を落としてはなりません。僕が行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」 33サウルはダビデに答えた。「お前が出てあのペリシテ人と戦うことなどできはしまい。お前は少年だし、向こうは少年のときから戦士だ。」 34しかし、ダビデは言った。「僕は、父の羊を飼う者です。獅子や熊が出て来て群れの中から羊を奪い取ることがあります。 35そのときには、追いかけて打ちかかり、その口から羊を取り戻します。向かって来れば、たてがみをつかみ、打ち殺してしまいます。 36わたしは獅子も熊も倒してきたのですから、あの無割礼のペリシテ人もそれらの獣の一匹のようにしてみせましょう。彼は生ける神の戦列に挑戦したのですから。」 37ダビデは更に言った。「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるにちがいありません。」サウルはダビデに言った。「行くがよい。主がお前と共におられるように。」 38サウルは、ダビデに自分の装束を着せた。彼の頭に青銅の兜をのせ、身には鎧を着けさせた。 39ダビデは、その装束の上にサウルの剣を帯びて歩いてみた。だが、彼はこれらのものに慣れていなかった。ダビデはサウルに言った。「こんなものを着たのでは、歩くこともできません。慣れていませんから。」ダビデはそれらを脱ぎ去り、 40自分の杖を手に取ると、川岸から滑らかな石を五つ選び、身に着けていた羊飼いの投石袋に入れ、石投げ紐を手にして、あのペリシテ人に向かって行った。

マルコによる福音書4章35-41節
35その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。 36そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。 37激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。 38しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。 39イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。 40イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」 41弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

 

【3】説教

 今日の聖書の個所で、弟子たちはガリラヤの湖で向こう岸に渡るべく、主イエスと一緒に乗って漕ぎ出しています。その船が突然、予期していなかった大変な嵐に直面しています。弟子たちの中にはもともと漁師だった人々もいました。けれども、この時その弟子たちにも手に負えない激しい突風が吹いてきました。これまでの経験のなかで培われてきた知識と技術を駆使しても、どうにもなりません。激しい突風が吹きおろし、どんどん波が打ち込んできて、船に水が満ち、沈みそうになり、命の危機にさらされます。私たちは弟子たちのように湖や海で嵐に直面することは滅多にないかもしれません。けれども自分の手には負えない嵐と言える大変な出来事に直面することがあります。人生は、海の航海にたとえられる時があります。穏やかな日がありますが、風や雨の日があり、嵐の日もあるからです。今日の聖書の御言葉は、私たちが嵐に直面していく時、どのように歩んでいくことができるのかを教えています。

 嵐のなかで、弟子たちが嵐に直面した時、「イエスは艫のほうで枕をして眠っておられ」ることに気づきます。私たちの船にも主イエスが乗っておられます。けれども、嵐のなかで私たちも弟子達と同じように、主イエスが眠っておられるとしか思えない時があるのです。嵐の中で、波にもてあそばれて、本当に今にも滅びてしまいそうに見える。いっこうに目に見える助けが神から来ない、と嘆いてしまいます。神はおられるのか、と思えてしまう時があります。けれども、決して見捨ててはおられません。主イエスが眠っておられた場所の「艫」は、船尾、船の後方を指していますが、そこには船を操る舵がありました。そのことは、主イエスは眠っておられるように見える、けれども、嵐のなかで確かに私たちの舵をとり、支え、導いてくださることを示しています。そして「枕」という言葉も注目されてきました。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」。この御言葉も一緒に大事に読まれてきました。私たちが安心して眠ることができない不安や悩みの中に主イエスは来てくださいました。主イエスは安心して眠ることができなくなる私たちの不安や思い煩い。その全ての悩みを共にして、担ってくださり、船の中に共にいてくださることを覚えたいと思います。

 この時、主イエスは嵐の後で「なぜ、怖がるのか。まだ信じないのか」と40節で言われています。しかし「まだ」とあるように、嵐の時も、弟子たちが共にいて、導いてくださる主に信頼するように願っておられたことが分かります。けれども、弟子たちはそうすることができませんでした。嵐を恐れ、主イエスを起こし、「先生、わたしたちが溺れてもかまわないのですか」と訴えます。私たちも弟子たちのように、嵐と言える現実の中で、主が共にいてくださり、支え、導いてくださる、と信頼し、自分を委ねていく、しかしそうすることがなかなかできないの現実であります。けれども、主イエスはその弟子たちの願いに従って、起き上がり、風を叱って、嵐を鎮めてくださいました。なかなか主イエスを信頼することができなかったことは不信仰と言えるかもしれません。けれども、主はその訴えを退けることなく、聞きあげ、立ち上がって、働いてくださっています。だからこそ、私たちは繰り返し不信仰に陥っても、この主に支えられ、立ち上がっていくことができるのです。

 主イエスが嵐を静める出来事は、私たちが嵐のなかで悩みのなかにある時に、「一体、この方はどなたなのだろう」、この主イエスを神として信じるように招いています。弟子たちはこの後も様々な嵐と言える現実の中で主イエスが働かれることを経験します。5章の始まりからは主イエスが汚れた霊を追い出し、女性の病を癒し、ヤイロの娘を死者から復活させます。けれども、嵐に直面していく弟子たちはしばしば主イエスを見失ってしまうのです。主イエスが捕らえられた時、ペトロも弟子たちも主イエスを疑い、否定し、逃げ去ってしまいます。弟子たちが、本当に主イエスが様々な嵐を静め、従わせることができるお方であることを理解して、従っていったのは、十字架で死なれ、復活された主に出会ってからでした。

 今日の聖書の個所で、弟子たちは嵐を恐れ、嵐の中で眠っておられる主イエスの姿に驚き、起こそうとします。マルコによる福音書には、弟子たちと主イエスの様子が逆の個所があります。14章32節から、主イエスが十字架につけられる前の晩のゲッセマネの祈りの様子です。弟子たちは居眠りをしてしまいますが、主イエスは身もだえするほどに苦しみ、恐れ、悲しみながら祈られています。これからご自分が引き受ける神の裁きを思い、恐れ、悩んでおられます。主イエスは御自分を信じることができず、眠ってしまう、弟子たちの罪人としての受けるべき裁きを御自身に引き受けてくださいました。そして「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫び、なぜ眠っておられるのか、どうなってもかまわないのですか、と弟子たちの深い絶望を御自分のものとして担って死なれました。その主が復活して、出会ってくださり、罪を赦し、共にいてくださることを知る時、弟子たちは自分たちの不信仰がどんなに深い主の真実によって支えられているか、そのことに気づかされるのです。

 風も海も、罪も病も死の力もどんなものも主を従わせることはできません。どんなものも主の愛から私たちを引き離すことはできません。木曜日の聖書の学びと祈りの会では詩編106編から学びます。その23節に「主は彼らを滅ぼすと言われたが、主に選ばれた人モーセは、破れを担って御前に立ち、彼らを滅ぼそうとする主の怒りを宥めた」とあります。「破れ口」とは城壁にあいてしまった小さな穴、破損個所ですが、そこから敵が一気に侵入して滅びてしまう危険があります。その破れ口に立って、それを押しとどめなければ、滅びてしまう。その「破れ」口に立って、神と人のために執り成しながら、御前に立って共にいてくださる。そのモーセこそ、私たちにとって主イエス・キリストなのです。この主イエスが嵐のなかで、私たちと共にいてくださり、悩みや不安の全てを御自分のものとして担ってくださいます。破れ口に立って御前に立って、向こう岸まで渡らせてくださいます。この主に希望があるのです。

 主イエスがこのような神だからこそ、嵐のなかで、心が恐れに包まれることがあっても、安心して、主に信頼して、従っていくことができるのです。嵐のなかで、この主が神として私たちと共にいて支え導いてくださることを信じて、希望をもって歩んでいきたいと思います。

 

【4】説教後の祈り

 嵐の中で共にいてくださる父なる神さま。どんな困難に直面していても、あなたが共にいてくださり、私たちを導いてくださることを感謝します。圧倒されるような状況においても、あなたが私たちをあきらめず、愛し、支え、守ってくださることを信じることができますように導いてください。

 父なる神さま。嵐のような現実の中にあるこの世界にあって、あなたが共にいてくださり、主が弟子たちの叫びを聞かれたように、あなたがどんな叫びも聞いてくださることを信じて、あなたにります。どうか、全ての祈り求める人々に助けをお与えください。様々な病気に苦しむ人々、心や体の痛みに耐えている人々、様々な治療を続けている人々を助けてください。大事な人々を失い、大きな喪失感の中にある人々を助けてください。様々な悩みや不安の中にある人々を助け、導いてください。不確かな時代に経済的な困難に直面している人々を助けてください。想像もできないような状況で、あなたに助けを求めている全ての人々を助けてください。

 この世界の全てのあなたの教会が嵐の現実の中で、共にいます主イエス・キリストを見出し、信仰と希望と愛をもって歩んでいくことができますように。

 この時、心に顔を思い浮かべる方々に必要なものをお与えください。病気や心身の衰えを覚える人々を助け、癒し、力を与えてください。困難を抱え、助けを求める人々に必要なものを与え、支えてください。またこの礼拝を覚えながら出席できない方々、今場所が違っても一緒に礼拝されている方々、ここにおられる方々、教会に連なる全ての人々を主の新しい命による祝福と守りの中で導いてください。この時、私たちの心の中にある全ての祈りを顧みてくださり、私たちを憐れんでください。この祈りを世の終わりまで、私たちと共にいてくださる主イエス・キリストの御名によって祈ります。

                                  アーメン