東京主僕教会の最近の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。なお、礼拝音声は諸事情により、しばらくの間おくことにしていますので、ご了承ください。

2024年6月16日礼拝

 

****礼拝情報は下記にあります****

 

【1】礼拝順序

《 前    奏 》
《 神の招き 》
招きの言葉(起立)    コリントの信徒への手紙二 5章16-17節
讃 美 歌(起立)    162
《 罪の告白 》
罪の告白の祈り(起立)    交読詩編 詩編19編
主よ、あわれみを(起立)    21-31
恵みの言葉(起立)    コリントの信徒への手紙二 5章20-21節
《 神の言葉 》
聖霊の導きを求める祈り
聖書朗読    エゼキエル書17章22-24節、マルコによる福音書4章26-34節
讃 美 歌(起立)    234A
説   教    「神の国のたとえ」
《 感  謝 》
執り成しの祈り
讃 美 歌(起立)    21-419
信仰告白(起立)    使徒信条
奉   献
主の祈り(起立)
《 派遣と祝福 》
頌   栄(起立)    21-28
派遣の言葉(起立)
祝   福(起立)
《 後  奏 》
*健康上お立ちになりにくい方は着席のまま礼拝をお守り下さい。

 

【2】聖書朗読

エゼキエル書17章22-24節
22主なる神はこう言われる。わたしは高いレバノン杉の梢を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って、高くそびえる山の上に移し植える。 23イスラエルの高い山にそれを移し植えると、それは枝を伸ばし実をつけ、うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる。 24そのとき、野のすべての木々は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、また生き生きとした木を枯らし、枯れた木を茂らせることを知るようになる。」主であるわたしがこれを語り、実行する。

 

◇マルコによる福音書4章26-34節
26また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、 27夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。 28土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。 29実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
30更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。 31それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、 32蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
33イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。 34たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

 

【3】説教 

   今日のマルコによる福音書で、主イエスは「成長する種」の譬えと「からし種」の譬えで「神の国」について語られました。「神の国」とは神のご支配ということです。神の独り子である主イエスがこの世に来られたことによって、神のご支配が実現しようとしている。その神の国、神の御支配はどのように実現するのか、そのことをたとえ話によってお語りになりました。「成長する種」も「からし種」もとても小さなものです。特に、「からし種」は、当時知られていたすべての種のうちで最も小さな種のひとつでした。なぜ主イエスはこのような小さな種を使って「神の国」の譬えを語られたのでしょうか。それは、主イエスに従っていた弟子たちはまさに自分達が小さな集団であることを気にしていたからです。主イエスガリラヤで伝道の活動を始めて以来、弟子たちが従い、時には多くの群衆も集まりました。けれども、依然として、主イエスと弟子達と従う人々は少数でした。周りの人々から、「神の国が来たと言っているけれども、こんな小さな弱々しい群れで一体何になるのか。神の国とはこんな小さなものなのか」という疑問が投げかけられたのです。

 そこで、主イエスはこの疑問に答えて、「成長する種」の譬えを語られました。「成長する種」の譬えによって主イエスが語っておられるのは、神の国は隠されており、目に見えないけれども、確実に前進し、成長している、ということです。人間の目から見れば、神の国というのは、ほとんど目に留まらないような、小さな現実に見えるかもしれません。神の国といっても、確かに今は吹けば飛ぶような小さな現実にしか見えないかもしれません。けれども、その種は蒔かれていて、気づかないうちに確かに成長していくのです。わたしたちの現実の中で、みすぼらしく、弱々しく、こんなのでは何にもならないと思われるような現実がある。しかし、そこに、神の国の「種」を見ていくことができるならば、わたしたちの現実に対する見方は変わっていくのです。

 みすぼらしい現実があり、弱々しい現実があり、こんなものでは何の役に立つのか、空っぽと思える現実がある。本当にそこに神の栄光があるのかと思える現実がある。しかし、そこに神の恵みを見て、現実に対する見方を変えられたのが宗教改革者のルターでした。宗教改革者のマルティン・ルターは「十字架の神学」ということを言いました。イエス・キリストの十字架は、中世においては、目を背けたくなる忌むべき象徴でした。無残に十字架の刑で死んだイエスの姿は、みじめで弱々しく、みすぼらしい、ただの人間の 男を想起させるだけで、そこには奇跡も栄光も何もないと思われたのです。
しかし、聖書に基づく信仰を追求したルターは、神の本当の偉大さ、素晴らしさは、人間にとっていかにも素晴らしいと思えるような栄光に輝く姿を通して表されるという考え方を栄光の神学と言って否定し、そのイメージを180度変えていきます。神々しく、栄光に満ちあふれたイエス・キリストは、人間が罪の中でイメージしたものにすぎません。そうではなく、神の栄光と神の力は十字架につけられたキリストの弱さと躓きを通して表されている、と言うのです。神の栄光と力、神の恵みは、イエス・キリストが十字架にかかって死なれたゴルゴタの丘、十字架の形において、その弱さの中に隠されて、最も明瞭に示されたのです。十字架の神学は、栄光の神学が弱さや愚かさ、惨めさとみなす、すべての苦しみの中に、神自身が隠されているところで、神を見ていきます。どんなに苦しい現実があっても、どんなにみすぼらしい現実、弱々しい現実、こんなもので何の役に立つのかと思える現実があっても、主が私たちを見捨てない。私たちと共にいてくださり、救いへと働いてくださっている。それが現実を十字架の形、十字架の光から見ていく十字架の神学です。

 主イエス・キリストは、私たちの弱さを、それによる苦しみ悲しみを、身をもって味わい知り、それを担って、十字架で死んでくださり、復活して下さいました。どうしても取り除きたい弱さを抱え、神に祈り求めていたパウロに与えられた答えは「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」という主の言葉でした。私たちが自分の弱さを感じるとき、自分にはあれもできない、これもできない、と感じて苦しみや悲しみを覚えるとき、人と自分を比較し、あるいは比較されてしまう中で、あの人には出来ることが自分にはできない、自分はなんてダメなんだ、と絶望を覚えるとき、そこにおいてこそ、神さまの力が働き、救い主イエス・キリストが恵みのみ業を行って下さるのです。私たち一人一人の日々の生活が、人生が、神の恵みの御業の中に、神の国の成長の中に置かれています。「わたしの恵みはあなたに十分である」。このみ言葉を聞きながら生きることが、キリスト教信仰です。その信仰によって私たちも、自分の弱さ、苦しみの中で、しかし喜びと感謝をもって、「わたしは弱いときにこそ強い」という人生を歩むことができるのです。

 

【4】説教後の祈り

 小さな種に成長をもたらしてくださる父なる神さま。あなたは私たちの持っている尺度では推し量ることができない仕方で、私たちと共にいてくださり、働いてくださることを感謝します。どうか、自分の弱さを覚える時、本当に神の国が来ているのかと思える現実に直面する時も、そこに、神の国の「種」を見ていくことができるように。あなたが御国を成長させるために、私たちを導くために生きて働いておられることを信じ、あなたに仕え、用いられていくことができますように。

 父なる神さま。あなたはこの世界に御言葉の種をもって生きて働いておられ、御子イエス・キリストからし種を与え、神の国の成長のために生きて働いておられます。どうかこの世界の問題を抱えている全ての場所で、あなたの御国の種を植え、成長させてください。生活の困難の中にある人々、医療を十分に受けることができない人々を助けてください。様々な暴力の中にある人々を解放し、助けてください。戦争で苦しむ人々、経済的な苦難の中にある人々、虚しさや孤独を感じる人々、未来への恐れ、過去を嘆く人々にあなたの希望を与えてください。世界の全ての人々が互いに寛大な心、優しい心を持って接し、仕え合うことができますように。

 この世界の全てのあなたの教会と私たちを、御国の種を蒔き、展開させ、成長させていくあなたの御業に希望をもって仕えさせてください。特に日曜学校に連なる生徒とそのご家庭が主の祝福のなかで守られ、支えられ、成長していくことができますように。

 この時、心に顔を思い浮かべる方々に必要なものをお与えください。病気や心身の衰えを覚える人々、困難の中にある人々に癒しと力を与えてください。この礼拝を覚えながら出席できない方々、今場所が違っても一緒に礼拝されている方々、ここにおられる方々、教会に連なる全ての人々を主の新しい命による祝福と成長の中で導いてください。この時、私たちの心の中にある全ての祈りを顧みてくださり、私たちを憐れんでください。この祈りを世の終わりまで、私たちと共にいてくださる主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン