東京主僕教会の最近の説教など

礼拝に来ることができなかった方、教会に関心のある方のために牧師が作成しています。どうぞ、礼拝にも来てみてください。なお、礼拝音声は諸事情により、しばらくの間おくことにしていますので、ご了承ください。

2024年6月2日礼拝

 

****礼拝情報は下記にあります****

【1】礼拝順序

《 前    奏 》
《 神の招き 》
招きの言葉(起立)    コリントの信徒への手紙二 4章6節
讃 美 歌(起立)    21-14
《 罪の告白 》
罪の告白の祈り(起立)    交読詩編 詩編139編1-12節
主よ、あわれみを(起立)    21-31
恵みの言葉(起立)    イザヤ書44章21-22節
《 神の言葉 》
聖霊の導きを求める祈り
聖書朗読    サムエル記上3章1-10節(旧432㌻)
    マルコによる福音書3章1-6節(新65㌻)
讃 美 歌(起立)    196
説   教    「主よ、お話ください」
《 感  謝 》
執り成しの祈り
讃 美 歌(起立)    284
信仰告白(起立)    ニカイア信条
聖 餐 式            21-79
奉   献
主の祈り(起立)
《 派遣と祝福 》
頌   栄(起立)    21-25
派遣の言葉(起立)
祝   福(起立)
《 後  奏 》
*健康上お立ちになりにくい方は着席のまま礼拝をお守り下さい。

 

【2】聖書朗読

サムエル記上3章1-10節
1少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた。そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。 2ある日、エリは自分の部屋で床に就いていた。彼は目がかすんできて、見えなくなっていた。 3まだ神のともし火は消えておらず、サムエルは神の箱が安置された主の神殿に寝ていた。 4主はサムエルを呼ばれた。サムエルは、「ここにいます」と答えて、 5エリのもとに走って行き、「お呼びになったので参りました」と言った。しかし、エリが、「わたしは呼んでいない。戻っておやすみ」と言ったので、サムエルは戻って寝た。
6主は再びサムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、「わたしは呼んでいない。わが子よ、戻っておやすみ」と言った。 7サムエルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった。 8主は三度サムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、 9サムエルに言った。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」サムエルは戻って元の場所に寝た。
10主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」 

 

マルコによる福音書3章1-6節
1イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。 2人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。 3イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。 4そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。 5そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。 6ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。

 

【3】説教

 サムエルは旧約聖書の歴史のなかで、イスラエルにまだ王が存在せず、士師と呼ばれる指導者が導いた時代に、最後の士師として働いた人でした。サウル、その後にダビデが王として立てられていく時に、王としての油を注いでいく重要な役割を果たしました。誰であっても、それが明確に完全に分からないとしても、神さまから与えられた一人一人違った、何らかの使命があり、務めがあります。サムエルがその使命に生き、務めを果たしていくことができたのは、神さまの導きによります。その導きにサムエルが従っていったのは、神の言葉を聞くことから始まりました。今を生きる私たちにも神の言葉が語られているのです。サムエルの物語は私たちの物語でもあります。

 サムエルは小さい時から祭司エリのもとに預けられ、シロの神殿に寝泊まりし、祭司の仕事を学びました。「そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることも少なかった」。決して神の言葉が語られることも、幻もなかったのではありません。2章12節「ならず者で、主を知ろうとしなかった」。祭司エリの子ども達、祭司である息子たちは神を軽んじ、祭壇の犠牲から神にささげられるべきものを自分たちのものにし、欲望の赴くままに私腹を肥やしました。そのために裁かれてしまいます。エリのもとで仕えていたサムエルを取り巻く現実は、身近な家族であるエリの家族に悲劇が起こる、そして、この後イスラエルの民がペリシテ人に戦争で敗れ、契約の箱も失われ、神を見失い、混沌とした困難な現実でした。しかし混沌とした困難な現実のなかで、神は御言葉をもって語り、働かれているのです。

 神さまは思いがけない、予期せぬ仕方で働かれます。祭司エリは、神に息子たちの罪を知らされて、自分の罪を知らされます。エリとエリの息子たちのいたシロは神の厳しい裁きを受けて、見捨てられたとも思えます。けれども、エリはそこで、息子たちとは違って、失敗と弱さ、罪をかみしめがら、しかしそこで主に聞き、自分を委ね、心から仕えることに努めていました。そのエリのところにいるサムエルに神の言葉は語られます。神が語りかけられたのは、学者でもなく、宗教的な指導者でもなく、権力者でもない、一人の小さな少年でした。神は何も知らない無防備な無力な少年、小さき者、弱い者に語りかけ、大切にして用いられるのです。私たちは生活に起こってくること、覆いかぶさってくる弱さや死に失望し、落胆する時があります。けれども、どんな時も見捨てられているのではありません。「神のともし火は消えておらず」とあります。私たちの土の器のような弱さのなかで働かれる神がおられます。小さい者である私たちを大切にしてくださり、働きかけ、私たちを用いて、ご自分の栄光を現わしてくださいます。どこにいても、人生の全ての状況の中で神が語りかけてくださり、一歩一歩導いてくださるのです。

 サムエルがある夜、神殿の神の箱のそばで眠っていたときに、不思議な出来事が起こります。4節に「主はサムエルを呼ばれた。サムエルは「ここにいます」と答えて、エリのもとに走っていき、「お呼びになったので、参りました」と言いました。エリは「わたしは呼んでいない」と言って、サムエルを戻しますが、こうしたことが数回繰り返されていきます。サムエルは小さい頃から聖所で過ごしてきましたが、神が自分に語り掛けられるのを聞いたことはありませんでした。エリも始めのころ、誰がサムエルに語りかけているのかを分かりませんでしたが、次第に、サムエルが神の声を聞いているのではないかと疑い始め、確信に至ります。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』」。それは始めてその時に祭司エリの心に浮かんだことではなく、これまでエリ自身が、神の言葉に聴いていくために心を備えていくための大事な姿勢でした。

 サムエルは、主が語っておられることを知り、その主の言葉を聞いていく姿勢を整えます。「主よ、お話しください。僕は聞いております」。この言葉は教会の生命線として大事にされてきた御言葉であり、私たちの神に対する姿勢のあるべき姿を一言で言い表した言葉です。「主よ、お話しください」。主がまず語られ、私たちはそれを聞く。それが主なる神と私たちの正しい関係です。主なる神が語られることを聞く用意が出来ている、それがサムエルがエリから教えられた、神の御前に立つ姿勢でした。私たちにおいて、お語りくださる方は主イエス・キリストです。主イエスのみ言葉、主イエスを証しする聖書の御言葉を聞くことから、私たちの信仰は始まるのです。

 先ほどマルコによる福音書を読みましたが、安息日に主の御言葉によって起こっている癒しがあります。私たちの主の日の礼拝において主の御言葉に聴く時に起こっている癒し、それがサムエルのように、主の御前に導かれ、主の御言葉が語られ、主の御言葉に聴いて、主に仕えて歩む者とされていくことです。神は私たちの名前を呼んでくださり、御言葉をもって、人を捕らえ、立ち上がらせ、従うことができるようにされていく。主イエスの御言葉によって、主の新しい命を与えられ、私たちの弱さや破れを用いて、神が働いてくださり、新しい命の水が流れ出す器とされていきます。サムエルの物語はイスラエルの物語であり、イスラエルの物語は教会の物語であり、私たち一人一人の人生の物語であるのです。

 

【4】説教後の祈り 

 愛と憐れみに満ちておられる父なる神さま。あなたはサムエルのように私たち一人一人の名前を呼び、あなたの御言葉によって、弱く、小さな私たちを捉え、立ち上がらせてくださり、あなたに仕える者として用いてくださることを感謝します。どうか、あなたの御言葉にいつも心を傾けて、あなたに仕え、あなたの栄光を現わしていくことができますように。

 あなたは今もこの世界に生きて働いておられ、どんな小さな者、弱い者であっても、あなたは愛し、大切にして、共にいてくださいます。しかしこの世界には病気や死、痛みや悲しみが絶えることはありません。この時代に生きていくために不安と心痛がつきまといます。どうか、世界の人々に日々の糧を備え、与えてください。そして人々が求めている必要なものを与え、満たしてください。癒しが必要な人に癒しを、励ましを必要な人に励ましを、慰めが必要な人に慰めを、確信が必要な人に確信を、そして全ての人に希望を与えてください。そして、あなたの正義、正しさ、思いやり、慈しみ、平和を世界の人々の心に与えてくださり、新しく生かしてください。そのために全ての指導者を導いてください。私たちも一人一人の仕方で隣人に仕えていくことができますように。

 そのために全ての教会、私たちの教会がどんな時も、主が共にてくださり、共に歩んでくださっていることを信じ、あなたの愛を証ししていくことができますように、そのために道を示し、支え、用いてください。

 この時、顔を思い浮かべることのできる、心と体に痛みをもつ方々に、疲れを覚えている方々に、あなたの慰めと癒しをお与えください。弱さの中にあって、あなたの恵みが強く、あなたにあっていかなることも空しくないことを信じさせて下さい。

この礼拝を覚えながら、様々な事情で来ることのできなかった方々を祝福し、顧みて下さい。今ここにおられる人々、場所は違っても共に礼拝する人々、心に覚えるすべての人々を祝福の内に導いて下さい。今私たちの心の中にある全ての祈りを顧み、憐れんでください。

 この祈りを世の終わりまで私たちに近くいまし、共にいてくださる主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン